Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

カテゴリ: 人間思索

鳥肌が立った出来事。



まさか、こんな光景を見る日が来るとは…感慨深いです。

上記の動画で、ホストを務めている男の名前は、ジェンク・ユーガー(Cenk Uygur)。
この番組"COUNTDOWN"の正式なホストではありません。
本当のホストであるキース・オーバーマン(Keith Olbermann)がお休みをとったため、ジェンクが代わりに臨時ホストとして入ったわけです。

この「ジェンクという男が、このCOUNTDOWNという番組でホストをしている」ということは、アメリカのメディア革命を象徴する大きな出来事なのです。
ちょっと解説したいと思います。


アメリカのテレビニュースチャンネルを見ると、報道の仕方が保守かリベラルかに偏っていることがわかります。もちろん、ニュースチャンネル自身は、思想にバイアスがかかっていることを否定しますが、見ていればわりと明らかです。

保守メディアの代表といえば、何と言ってもFOX NEWSです。保守派ですから、共和党の支持者が好むような思想(政府は小さく税金は低く、自由貿易、銃OK、同性婚ダメ、中絶ダメ、国民皆保険ありえない、レーガンがヒーロー 等々)を持ったホストをそろえ、ニュース番組を提供しています。

そのFOX NEWSの中でもボス的存在なのが、ビル・オーライリー(Bill O'Reilly)。



この動画のように、ゲストと喧嘩になることがしょっちゅうです。彼には熱狂的な支持者と、対極には多数のアンチが同時に存在しています。彼の"The O'Reilly Factor"というニュース番組は、ケーブルテレビのニュース番組の中で最も視聴率が高い番組ですが、好きな人も嫌いな人もみんな見るのでしょう。

ビル・オーライリー率いるFOXに対抗するのが、リベラルメディアの代表であるMSNBCです。CNNや、CBSもリベラル寄りですが、MSNBCは、ハッキリとリベラル色を打ち出していて、一部では「プログレッシブ」(急進的)という形容詞が使われることもあります。

2年前の大統領選挙では、MSNBCは大きな役割を果たしました。リベラルのMSNBCは、民主党支持者の好む思想(弱者に優しく、政府は市場を管理、規制貿易、銃ダメ、同姓婚OK、中絶OK、国民皆保険推進、オバマ、クリントンがヒーロー)を背景に、連日共和党およびブッシュ大統領を攻撃し続けたのです。

そして、MSNBCの急先鋒、キース・オーバーマンのニュース番組が "COUNTDOWN"。
ビル・オーライリーに負けないくらい濃いキャラクターで、共和党に関連する全てのことを否定し続けます(笑)。



ビル・オーライリー、ラッシュ・リンボー(この人はラジオホストですが、オーライリーよりもさらに過激)といった保守陣営をボコボコにしています。

ここまで来ると、完全にショーですから、安心して「懐疑的に」番組を見ることができます。バイアスのかかっていることが視聴者にわかっているから、テレビ局を変に疑う必要もなく、逆に安心なのです。アメリカのニュース番組を見ていて気持ち良いのは、こういう風にテレビ画面に出てくる人が、ポジションをハッキリと取り、それを表現することです。

もう一人MSNBCの強力なアンカー、レイチェル・マドウ。



彼女は、主要テレビ局・プライムタイムのニュース番組のホストとして、ゲイでありながら抜擢された初めての女性です。「存在自体がリベラル」で、保守派にとっては脅威なのです。


さて、ジェンクの話に戻ります。
ジェンクは、もともと、テレビ界の人間ではありません。

トルコ系アメリカ人としてNJで育ち、ウォートンMBA、コロンビア・ロースクールを卒業したエリートです。法律事務所勤務と同時に、ラジオ放送を副業でこなし、2002年に、インターネットでニュースとエンターテイメント情報を配信するザ・ヤング・タークス(The Young Turks)というニュース番組を立ち上げました。

ジェンクは、インターネットで、ニュース番組をゼロから作ったのです。
テレビのセットには到底かなわない、貧相なスタジオですが、ジェンクは持ち前の弁舌を生かして、YouTube上での視聴者をドンドン増やしていきます。収益は広告と寄付によって成り立っています。私も、ヤングタークスが結構好きだったので、3年前から会員になり、毎月10ドルですが寄付をさせてもらってます。
ジェンクの口癖は、"Let's keep it real"。建て前を排除し、全ての物事を本音で切り、誰に遠慮することもありません。


2008年、ヤングタークスはすでにネット上では一大メディアとなっていました。大統領選において、MSNBCなどの主要リベラルメディアの「援護射撃」とも呼べるニュースクリップを次々と展開します。
ヤングタークス自体は、2時間ほどのニュース番組なのですが、彼らはそれをいくつかの細かいニュースクリップ単位に動画を分け、それを次々とYouTubeにアップしたのです。共和党副大統領候補ペイリンを攻撃しているのが次のクリップ。こんな感じのクリップが、YouTubeからは山のように出てきます。



ジェンク率いるヤングタークスの影響力は、日に日に大きくなり、テレビ局も無視できないほどになりました。昨年から、テレビ局のニュース番組に、ジェンクがコメンテーターとしてゲスト出演する回数がだんだん多くなっていったようです。

そして、今年の7月(6月だったかな)、The Dylan Ratigan ShowというMSNBCのテレビ番組で、ジェンクが臨時ホストをつとめました。ネット出身のアンカーが大手テレビ局のニュース番組ホストを任されるという、歴史的瞬間です。

アメリカの番組ホストはよく休みをとります。そうすると、代わりのアンカーが臨時ホストとして入るわけですが、当然経験や人気が乏しいアンカーが入るので、視聴率は落ちるのが普通です。ところが、臨時ホストとしてジェンクが入ると、視聴率が大幅に伸びるのです。ネットでの支持者が、「ジェンクが出るんなら、見よう」と思うのでしょう。こうなったら、テレビ局としてはもう無視することはできません。

こうしてジェンクは、MSNBCの看板番組であるCOUNTDOWNのホストをつとめるまでになりました。昔からジェンクを支持していた自分としては、鳥肌が立つほど感動的な出来事です。
ネットで視聴者ゼロからスタートし、頭脳と弁舌で視聴者を増やし、ついにCOUNTDOWNの臨時ホストにまでのぼりつめたジェンク。MSNBCが、ジェンクの新ニュース番組を作るのは時間の問題といわれています。



ジェンクがテレビ界に行ってしまうのは、ネットのファンとしてはさびしいところです。でも、遅かれ早かれ、ジェンクはテレビの仕事をやめ、ヤングタークスに完全に戻ってくる日が来るのでしょう。その時こそ、テレビの時代は終わり、本当のメディア革命が起きたと言えるのかもしれません。

ストリートビューで小平市を探検した話を書きましたが、もともとは、Mr. Childrenの歌を聴いているうちに、昔のことを思い出して、小平の情景が浮かんだことから、ちょっと見てみたくなったのです。

CDの棚を整理していたところ、「売上アップ云々」、と書かれたビジネス系のDVDがあって、「そうだ、これを久しぶりに見てみよう」と思ってケースを開いたところ、DVDではなく、ミスチルの"Atomic Heart"というアルバムCDが入っていました。

CD管理の悪さを露呈したわけですが、それは置いておいて、久しぶりにOverやらCross Roadやらを聴いてみると、よく聴いていた頃の情景がよみがえってきました。

Mr. Childrenの曲は何がいいのか、といえば、やはり歌詞がいいと思うんです。
愛とか夢とか希望とか歌う人がいたりしますが、ミスチルはそういうことについて歌っても「こんなこと表面上は言ってるけど、裏では実はこんなこと考えてるんだ」みたいな、普段人が言わないような、隠したいと思うようなことまで見事にさらけ出して詞にしてしまってるところがすばらしいと思うんです。

…って、こんなこと、ミスチルファンなら、誰でも知ってることで、改めて言うまでもないんですが、その表現の仕方とか、「今の自分の全てに正直であろう」という真摯な姿勢は、すごく憧れるんですよね。

自分について完璧で美しいことばかり言ったり、なんとなく聴き触りの良いことばかりを言ったりするのではなくて、実は裏でどうしても持っている欲望だとか、適当さだとか、劣っているところだとか、そういうことも全部含めて自己表現できる、という所に自由さを感じます。しかも諦めや絶望だけに終わるような青臭さがなくて、「それでも生きていくんだ」というような、いつも新しい道を模索しようという姿勢が伝わってくるんです。


完璧な言葉ばかり並べる人は、嘘くさいと思うんです。例えば、政治家というのは、完璧なことばかり言う人達の代名詞だと思うんです。相手の政党がAと言えば、自動的にBと言い、相手は100%間違い、我々は100%正しいと。私に投票すれば、明るく開かれた未来が待っていると言うわけです。

誰も、自分の欠点なんて述べないですよね。いつも万人に完璧な自分を見せなくちゃいけない。そういうところに、ものすごく大きな嘘くささを感じるわけです。
だから、逆にマスコミだとか、解説者だとかが、「あの政治家はあんなこと言っているが、裏では利権がからんでいる」「今回の発言は、選挙を前にして〇〇層にアピールする狙いがある」なんて解説をいつも加えなくちゃいけない。

麻生さんが小学校を訪問したら、「これは庶民派としてのアピールだ」とか「またこれは彼のパフォーマンスだ」などと周りは思うわけです。だから、本人がアピールのつもりでも、全くアピールになっていない。支持率は下がる一方です。これは、下心を隠しているように見えるから、余計に白々しいわけです。政治家という職業の構造上、これは仕方なく、個人の責任でないとも言えます。

でも、そんな場面で、もし麻生さんが「僕は小学校訪問しているけど、これは実はアピール目的で、本当は小学生になんかこれっぽっちの興味もない。でも、小学生に会ってみたら、エネルギーがたくさんあって、触発された」なんて本音を自分の言葉で言ってくれれば(これが本音なのかは知りませんが)、少なくとも見ている側は、「表裏がないんだな」と思って彼の言葉に対する信頼度は増すと思うんです。

オバマ大統領は、そういう意味でやはり非常に成熟していると思います。「自分は完璧じゃない。国民の努力と忍耐なくして変革はありえないから、力を貸してくれ。共和党も正しい意見だったら、取り入れるから出してくれ」と言ってのけるオバマ大統領は、嘘くささがありません。2人の閣僚が税申告問題で辞職しましたが、その人事でも言い訳せずに"I screwed up"(「私の大失敗だった」)なんて言えちゃう人なんです。やはりこういう姿勢だからこそ、多少失敗しても(現在もたくさんの失敗を毎日しているように見えます)、国民からの本当の信頼を得られていると思うんですよね。

ビジネスマンでもそうです。どっかからコピー&ペーストしてきたミッション・ステートメントを掲げたって、本当にその人がそのことを思っているのかな、と人は疑ってしまうわけです。中には、名経営者の言葉をそのまま引用して社是にし、その割には顧客ないがしろで金儲けばかり考えている人もいます。それだったら、「稼ぐが勝ち」と誰に対しても表裏なく言えてしまう元ライブドア社長の堀江氏の方がよっぽど軸にブレがなく、人として信頼ができます。

ドロドロとした裏の心を全部さらけ出して、それで太宰治みたいに「生きててすいません」みたいに圧倒的にネガティブな結論に落ち着くのも困りますが、彼は「走れメロス」のような理想の友情も描いたわけで、「負の部分もあるけど、がんばっていこうよ」みたいなベクトルの向け方にはすごく共感します。

自分のブログでも、本当は自分のうまくいっていることだとか、自慢話だとか、楽しいことばかり書きたくなってくるんですが、いいところも悪いところもなるべく全部出そう、という努力は、これでもしているつもりなんです。表現と言う意味では、まだまだ学ぶ点ばかりだと思っています。


話をミスチルに戻します。

ミスチルの歌は、年を経るごとに、どんどん世界観が変化しているなぁ、というのを、ファンなら誰もが感じると思います。紅白歌合戦には出場しない、とずっと言っていたのに、昨年末は出場していました。紅白に出ない、というポリシー自体が、彼らにとって意味のないこだわりに変化したのかもしれません。

そういえば、自分としては珍しく、この前、音楽雑誌を買いました。
桜井和寿氏のインタビューが載っていたからです。

ROCKIN'ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 01月号 [雑誌]ROCKIN'ON JAPAN (ロッキング・オン・ジャパン) 2009年 01月号 [雑誌]
販売元:ロッキング・オン
発売日:2008-12-20
おすすめ度:5.0
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紅白のことについては書いてありませんでしたが、デビュー以来のアルバムとその世界観の変遷が、桜井氏自身の口から語られている、貴重なインタビューがこの雑誌に載っています。表現者としてのエゴと、ファンの満足を満たすことを、同時に達成しようとしているんだなぁと、納得しながら読みました。


最後に、

「ミスチルの(シングル以外で)この曲ちょっといいんじゃないの・個人的ベスト10」

1. ティーンエイジ・ドリーム(I〜II)<Kind of Love>
2. 彩り<HOME>
3. Over <Atomic Heart>
4. 星になれたら<Kind of Love>
5. ありふれたLove Story 〜男女問題はいつも面倒だ〜 <深海>
6. Everything is made from a dream<Q>
7. ラララ <DISCOVERY>
8. もっと<HOME>
9. one two three <It's a wonderful world>
10. 幸せのカテゴリー<BOLERO>



いいのかな、これリンクして…?

今日チラッとLarry King Liveを見たら、幼い娘を殺された父親のインタビューを少しやっていたので、しばし見入ってしまいました。

3年前に起きたこの事件ですが、父親は憤慨がおさまらず、被告に怒りをぶつけていました。「被告が死ぬまで苦しみを味わうことを心から願う」「極刑を望む」と強い口調で言っていました。
彼にはそういう言葉を使う権利が十分にあるように思えます。幼い娘を拉致され、暴行され殺害されたことを考えれば、被告を許すことなど決してできるものではありません。

しかしながら、思い出してしまうのが、1年前くらいに見た別の裁判の様子。
息子を殺された母親が、被告席にいる連続殺人鬼に向かって、「正直に全てを語ってくれてありがとう。私はあなたを許します」と言っていたのです。

これには驚愕しました。彼女には、被告を憎む理由と資格がいくらでもあるのに、「全て許す」というのです。


悪人を憎むのは、自然なことであるように思えます。
それなのに、悪人に対する恨みで心が満たされている人には、自由も希望もなさそうに見えます。

逆に、恨みを手放して許しを与える人には、希望に満ちた人生がこれから広がっているように見えます。


親族を殺されて「犯人を恨むな」「許せ」などと、経験者でない私はとても言えるものではありません。
しかし、逆立ちしても変えられない現実が目の前にあるのもまた事実。
それに対しては、パワフルに意思と行動を選択したいものだと思いました。

パワーをとるか、快楽をとるかの選択肢を迫られるのが、毎回の食事。

往々にして、ファーストフードの店に行ってハンバーガーをとるか、野菜をとるかの選択に迫られます。

私など、普通にしていると、体は肉、脂、炭水化物を求めているわけなので、野菜などには目がいかず、ハンバーガーを頼みたい衝動にかられます。
しかし、健康な食事の基本は野菜中心の食生活であることを頭ではわかっています。

そこで、ハンバーガーを注文すると、体はとても満足します。
やはり肉はおいしいからです。
しかし、食べた後でどことなく罪悪感が残ります。

ここで、あえてサラダを注文すると、どうなるか。
ハンバーガーほどおいしくないので、一時的な食欲は満足しません。
しかしながら、「注文すべきサラダを注文した」という精神的な充足感が内からわいてきます。

健康な体を維持する、という自分の信念と行動が一致したから、そこからパワーが生まれる、というわけです。こういうパワーというのは「そこに快楽や苦痛があるか」ということとはあまり関係がないようで、ともかく自分の言葉を守るか、それを信じられるかどうかということにかかっているように思えます。

自分の言うことが自分で信じられると何が良いのか?
段々と、自分の発する言葉が力を持ち、現実を形作っていくようになると思うのです。

自分の声を録音して聞くと、ぞっとします。
他人の声は、全てOKなのに、自分の声だけは変に聞こえます。

大学の時に、アイスホッケー部に所属していたのですが、練習や試合のビデオを毎回必ず撮っていました。
その時に自分の姿を見て思ったのですが、何ともひどく不恰好なのです。
滑り方やフォームは格好悪く、見ていられません。
しかも、発する声を聞くと最悪です。確かに、自分が言った言葉であるのに、ひどく違和感があるのです。

そんな自分の姿を客観的に眺めると、ずいぶん落ち込んだような気がします。

一方、他の人に意見を求めると、「いや、お前のフォームは良い。オレのは最悪だ」と言います。

ところが、こういうビデオによる反省も続けていくと、段々と自分の姿を見ることに慣れていきます。ひどい自分の姿も、客観的に見ることができるようになるということでしょう。

私は、セミナーをやっていますが、どのようにお客様に写っているかわからないので、今度ビデオに撮ってみたいと思います。

血液型で人の性格を判定するのは、日本人だけらしいです。
自分の血液型を知っているのも、世界的には珍しいようです。

たまに、「JimmyさんってO型でしょ」とか「A型でしょ」とか言われると極めて困ります。血液型による性格診断をまるっきり信用していないからです。
「そうですかねぇ」と言っていつもごまかしていますが、ごまかしてばかりもいけないので、次回は「血液型信用してないんですよ」とでも言うつもりです。

血液型による性格診断に、科学的な根拠は全くないそうです。
それなのに、あまりに多くの日本人が信じている(もしくは信じているふりをして楽しんでいる?)というのは不可解です。

大抵の場合、性格診断というのはあたるものです。

どんな人でも、いろいろな側面があるのだから、当たり前です。どんな人でも適当な側面、しっかりした側面、積極的・消極的な側面、エキセントリックな側面、いろいろな面を持っているものです。だから、あなたは○○な人、というのは大抵当たるに違いないのです。
もしくは、当たらなかったとしても、「そんなこともあるかな」くらいに考えるだけでしょう。

こういう性格診断で問題なのは、自分の可能性を狭めてしまうことだと思います。
どうせ自分は○型だから、自分の○○な性格は直らないんだ、と開き直ることは最悪だと思います。こういうものは、そこまで深刻にならずに楽しみたいですよね。

今まで、自分でそれなりに成果をあげてきたことを振り返ってみると、常に「根拠のない自信」があった様に思います。


他の人の話を聞いても、その人が何かできる証拠は何もなかったけれども、何となく自信があってやり遂げてしまった、ということをよく聞きます。

根拠のない自信がどこから生まれてくるのか、それは根拠がないのでわかりません。


しかしながら、よくよく考えてみると、あることが達成されることを、その人は前から何となく想定しているわけです。達成していないものを、達成できるかのように感じることができるということは、何らかの事前体験が必要であることは確かであるように思います。

私は、ハイパフォーマーの本などを読んだり、話を聞いたりすることによって、「同一化」を経験し、そのような自信を得ることができるのではないかと思います。

常人では成し得ないことを達成した人の思考や言葉に常に触れ続けることで、困難に遭遇しても常に前向きで力強い未来を思い描いて進むことができるわけです。

世の中には、観客席に座って批判だけ飛ばす人があまりに多いものです。
そういった言葉を発することから自分を遠ざけ、頭の中で創り出したヒーローの中に理想の姿を築きあげていくと、その中から根拠のない自信がわき出てくるのだと思います。

昨日のブログでとりあげた記者は、同宗教の有名人メンバーに、「あなたはひょっとして洗脳されているんじゃないのか」ということをしきりに聞いていました。

誰かに向かって、「あなたは洗脳されている」と言うのは、侮辱以外の何物でもありません。なぜなら、洗脳されているかどうかは、本人では絶対にわからないからです。だからこそ、「洗脳」されているのです。

だとしたら、その質問は、聞くだけムダなのです。言ってもムダなことをあえて言うのは、相手を貶めたり、挑発したりする意図があるからで、プロの記者がそのようなことを言うべきではありません。

洗脳について語る時に注意すべきことは、「他人の洗脳を指摘している自分は、何かに洗脳されていないか」ということです。世界に誰一人として、「自分が洗脳されている」ということを知っている人がいるはずはありません。


しかし、一方「普通」の人生をおくっている自分に対して、「自分は何かに洗脳されているかも」と仮説を置いて質問することは、新しい世界を開くきっかけになるのではないかと思います。

例えば、オウム真理教の事件が起きた時、ほとんどの人は、同教団の人たちは教祖に洗脳されている、と思ったのではないでしょうか。私もその一人です。

ただ、「この教団は洗脳集団だ」と、限られた情報から疑いなく断定できるとしたら、そのこと自体の方が問題だとおもうのです。その断定の裏には、「自分の情報判定能力には、曇りがない」という慢心(=自分は洗脳されていないという根拠のない主張)が隠れていると思います。


新しい世界が開けた時に、「自分の視野は狭かった」という開きを経験することは社会生活をおくる上で多々あると思います。「自分には、まだ知らないことがあるんじゃないか」「今までの限られた自分の人生経験では、答えを出せないことがあるんじゃないか」と言った問いかけは、知的好奇心を刺激し、新しい可能性を広げてくれます。

「自分は何も知らない」という土台に立つようにしたいものです。

ブログを生真面目に毎日更新してきて1ヶ月4ヶ月経ち、遅れが出ながらも取り戻しながら書いてきたわけですが、どうも完璧主義(完璧にはなれないのを承知であるにもかかわらず)がジャマをして、一時ストップしてしまいました。

自分がやると言ったのに、やらない - これほどパワーを奪われるものはありません。

仕事が半端じゃなく増えてきたということも、考えてみればただの言い訳です。
一日15分程度、ブログを書く時間など、とれないはずがないのですから。

こういうものも、義務化してくると、段々苦痛になってくるものです。
しかし、原点に立ち戻って、また途中から書きはじめたいと思います。
そもそも、自分の身の回りで得たインスピレーションを共有する、というのがそもそもの目的です。ネタはいくらでもあるので、無様ながらドンドン出していければと思います。

考えてみれば、何も悪いことは起きていません。

"Nothing is wrong"

この上に立って、常にまた新しくはじめたいと思います。

子供の頃、かくれんぼだとか、ドッジボールだとか、将棋だとか、ゲームばかりやっていたような気がします。

ゲームが終わると、勝ち負けが決まって、喜んだり悔しがったりするわけですが、ゲーム自体にはほとんど意味がありません。ドッジボールなんて、ボールぶつけ合うだけ。痛いだけです。

しかし、ゲームの最中はとにかく一生懸命で、生きている実感を何より味わうことができました。意味のないものに、なぜあれほどの熱意と集中力を持ってやれたんだろうと、今では不思議に思います。その時のモチベーションは、「勝ちたいな」くらいのものです。

大人になると、やることが意味あることばかりのように思えてきます。
あるいは、意味あることしかやらないべきであるように見えます。
自分のやっている仕事の意義を考えたり、勉強の効率を考えたり、稼げるお金の金額を考えたり、価値のありそうなものに目が向きます。

しかし、どうも価値のあるものが本当に存在するのか、疑わしくも思います。
ある人にとって価値のあるものは、他人にとっては全く価値がありません。

仕事がつまんなくなったり、燃え尽きたりする人も、元々その仕事に何か意味があると思っていたからこそ、逆にその「意味のなさ」に耐えられなくなるのではないでしょうか。

だったら初めから、「今やってること全てに意味がない」と割り切ればいいようにも思います。
その上で、ゲームをはじめたらいいのではないかと思うんです。
「勝ちたいな」と思って無我夢中で遊ぶゲームの方が、意味のある物事よりもよっぽど楽しそうです。

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