他人が何かを分析した結果を見たり読んだりすると、「それって、結果ありきじゃないの?」と思うことがあります。
例えば、最近、株が大幅に下がったことがありましたが、その時新聞は「米国経済の先行きが懸念され、株が下がった」などと言っていました。
しかし、その後株価が一時戻ると、今度は「市場は堅調との見通し」などということが言われます。説明がつかない場合には、「混乱の気配」などという分析がされます。
しかし、これらの言葉には全く根拠も意味もありません。
株が上がったか、下がった、それを見るのは簡単ですが、「次はこうなる」と予測できることに、分析の意味があるはずです。実際には、次に起こることを的確に予測できる人は滅多にいません。
このように、何か分析をして、知った気になるが、全くその分析結果が役に立っていない(もしくはただ言っているだけ)、ということは世の中にたくさんあると思います。
私も、むやみに分析をしたがるので、例えば誰かと会っても、「この人はこういう性格だ。過去にこんなことがあったに違いない」などと勝手に頭の中で話を作り上げ、分析してそれに酔うのは日常茶飯事でした(今では、それをほとんどしませんが)。
それは、自己重要感を得られる楽しい作業なのですが、それをした瞬間に自分がその人に対して持っている先入観や偏見がそのままコミュニケーションの中に現れてしまいます。
相手が可能性に満ちた存在である、という敬意すら払わなくなってしまったら、何の意味も根拠もない分析のやりとりを交換し合うだけの乾いたコミュニケーションになると、今ではそう思っています。
例えば、最近、株が大幅に下がったことがありましたが、その時新聞は「米国経済の先行きが懸念され、株が下がった」などと言っていました。
しかし、その後株価が一時戻ると、今度は「市場は堅調との見通し」などということが言われます。説明がつかない場合には、「混乱の気配」などという分析がされます。
しかし、これらの言葉には全く根拠も意味もありません。
株が上がったか、下がった、それを見るのは簡単ですが、「次はこうなる」と予測できることに、分析の意味があるはずです。実際には、次に起こることを的確に予測できる人は滅多にいません。
このように、何か分析をして、知った気になるが、全くその分析結果が役に立っていない(もしくはただ言っているだけ)、ということは世の中にたくさんあると思います。
私も、むやみに分析をしたがるので、例えば誰かと会っても、「この人はこういう性格だ。過去にこんなことがあったに違いない」などと勝手に頭の中で話を作り上げ、分析してそれに酔うのは日常茶飯事でした(今では、それをほとんどしませんが)。
それは、自己重要感を得られる楽しい作業なのですが、それをした瞬間に自分がその人に対して持っている先入観や偏見がそのままコミュニケーションの中に現れてしまいます。
相手が可能性に満ちた存在である、という敬意すら払わなくなってしまったら、何の意味も根拠もない分析のやりとりを交換し合うだけの乾いたコミュニケーションになると、今ではそう思っています。