Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

カテゴリ: 英語道場

日本にいる場合、英語を読んだり聞いたりする時間は、やる気さえあればいくらでも確保できますが、話すことだけは、どうしても相手が必要になってきます。

したがって、何とかしてこの話す時間と言うのは確保したいものですが、選択肢が多くないのも事実です。ベストなのは、職場に外国人の上司がいたり、海外の取引先とコミュニケーションがある場合でしょうが、なかなかこういう機会に恵まれている人は少ないものです。私は、そういう環境にいませんでした。

私が利用したのは、英会話学校のクラスですが、それだけでなく、タダで使えるメンバーズスペースという場所に頻繁に通うことで、ネイティブの先生と交流を持とうとしました。

私の通っていた英会話学校では、このメンバーズスペースというのが非常に広い作りになっていました。それでも、学校に通う全ての人が同時に利用すると、当然ながらパンクしてしまいます。そう考えると、圧倒的多数の人は、実はこういったスペースを利用していない、という事実がわかります。

実際、そのスペースにはいつも同じようなメンバーがたむろしていました。彼ら・彼女らと、小さいコミュニティのようなものを築いていたため、毎回行くことが、自分にとって大きな楽しみになっていました。これは、英語の練習の上では大きなアドバンテージでした。自然な形で、英語を話すコミュニティの一員になれたので、労せずして、たくさんの練習をこなすことができ、結果的に段々と話すことができるようになりました。

英語を話すコミュニティの一員になる、というのは、英語を上達したい人にぜひおすすめしたい方法です。英語を学習するために行く、のではなくて、楽しいから行く、という風に動機が変わるからです。

英会話学校でなくとも、結構いろいろな場所にコミュニティはありそうです。
今はSNSも盛んですから、同じような考えをもっている人にも会えるでしょうし、英会話喫茶のような所でもいいと思いますし。

日本にいた頃、どんな英会話学校がいいのか、ということを聞かれることがよくありました。

私自身は、5つの英会話学校を渡り歩いて、いろいろ試しましたが、おそらく確実な条件としては、「自分で先生を選べること」なのではないかと思っています。

私の考えでは、英語の教育効果というのは、インプットとアウトプットの大量の繰り返し、そして検証と修正作業をその中に加える、という所からしか得られません。

インプットはいくらでも一人でできますが、アウトプットと検証は、他者がいなければ絶対に成り立ちません。そういう理由で、アウトプットの機会を求めに英会話学校に行くわけですが、きちんとアウトプットを引き出してくれる先生に当たらないと、悲惨な結果が待っています。

私も良くない先生(たとえば、自分がずっとしゃべっているだけの先生など)に当たった事がありますが、正直学習効果0になります。



したがって、適切な質問を適度にしてくれる、良い先生に出会いたいわけですが、なかなか「この英会話学校に行けば、良い先生が多い」と断定できることが少ないのが現状です。

どの学校にも、良い先生とあまり良くない先生というのは確実にいます。なので、どの学校でも良いから先生を選べる所に入り、いくつか講義をとって良い先生を見極めて、その人の講義を受け続ける、というのが良いアプローチだと思うんです。

いろいろな先生の講義をとるにしても、自由度があった方が良いのは間違いないと思います。参考にしていただければと思います。

TOEICの受験の数ヶ月前頃、千葉での仕事が終了しようとしていました。

私は、CICOM(ビジネススキルの養成校)にまだ通っていたものの、AEONでのレッスンが終了し、次にどうしようかを迷っていました。

たまたま、2001年の夏頃にリンガフォンという英会話学校のセールスマンに会い、内容を説明され、興味を持ちました。
私が気に入ったのは、好きな時に自分でトピックと先生を選んで出席できる点で、回数券制になっている点も、自分にとっては好都合でした。

また、「メンバーズスペース」という場所があり、そこにいる限りは、先生と自由に話すことができるようになっています。「話す」ということについて、絶対的な時間不足を感じていた自分にとっては、このシステムはマッチしているのを感じました。

また、横浜、新宿、銀座など、どの学校に通っても、チケットを使えるしくみになっていました。

私は、秋になってからリンガフォンと契約をし、横浜校や銀座校に出席するようになりました。そして、数ヶ月経って千葉のプロジェクトが終わると、2002年の1月に新宿に引っ越しました。

新宿に引っ越した理由は、2つあって、英会話学校と、スポーツジムの両方に近いところに住みたかったからです。

その年は、とにかく英語力を向上させることと、体力の維持を目標にしていたので、施設との物理的な距離を狭めることで、効果の最大化を狙ったのです。

そして、この思惑は完全に的中しました。


仕事が終わると、新宿駅で降り、英語の授業を受ける、もしくはメンバーズスペースで先生と話す。このような生活が、始まったのです。
授業は遅い時間もあったので、仕事が忙しくとも、何とか調整することは可能でした。

とにかく家から近い場所にあるので、休日何がなくとも先生と話をするために立ち寄ったり、知り合った仲間と話をするために足を運ぶようになりました。

こうして、週3、4日くらい、1日あたり1時間-4時間くらい、会話の練習をする時間を設けることに成功したのです。

日本にいる日本人が、英語を話す時間を確保するのは難しいものですが、このようにして急速に会話練習時間を積み上げていくことができました。

ネイティブスピーカーのようにペラペラになり、文章も書けるようになりたい、ということを目標に現在、英語の勉強をしています。

社会人2年目で、TOEICで、ある程度の点数を取った私は、もうTOEICでさらに上を目指すことに完全に興味を失いました。

900点台は、さぞ完璧にしゃべれるのだろうと思っていたのが、全然しゃべれるわけではないということに気づいたからです。

私は、そもそもネイティブスピーカーみたいに、「ペラペラ」に話せるようになりたいなぁ、という気持ちは、ずっと前からあって、そのために社会人になった頃から、猛烈に練習を積み重ねるようになりました。

読み、書き、聞き、話すという四要素について、インプットとアウトプットを繰り返し、途中で検証作業を行う、ということを生活の中に織り込みながら、英語力を鍛えてきたのです。

そろそろ、「ネイティブへの道」ということで、私がいかに、TOEICで高得点取得後も勉強を重ね、英語でビジネスをこなすことができるようになり、英語でセミナーを開けるようになったのかということを、書きたいと思います。

正直、私の書き方は、かなり傲慢に聞こえるかもしれません。
私も、まだまだ英語を勉強中の身でありながら、このようなことを書くことに対して、ためらいもあります。

しかし、私は、いくつもの英会話学校に行って、一部の生徒が本気で英語力の習得に向けて努力しているのを見てきました。彼ら・彼女らに対して、何か自分の体験が少しでも動機付けになればと思って、このシリーズ「ネイティブへの道」を書きたいと思います。

英語がネイティブに近づくと、アメリカのコメディ番組や、劇などを鑑賞して、生の意味を聞き取って笑ったり、小説のいい文章を読んで感動したり、楽しみが数倍に広がります。この喜びを、少しでも多くの人と共有できたらと思うのです。

「たくさん聞いてたくさんしゃべっていれば英語は必ず上達する」

こんなことを言う人がいます。

私もある程度は同意しますが、もし英語をネイティブレベル、「ペラペラレベル」にまで持って行こうという人は、これだけでは不十分です。

確かに、子供は大量のインプットを入れて、それを出すことで言語学習を加速化させます。大人も、同じようにインプットをすれば当然言語を身につけることは可能なのですが、環境的に子供とは決定的に違う点があります。

それは、「大人は、大人に注意しない」ということです。

ある程度話せるようになってくると、何がおきてくるかというと、英会話学校で、先生が自分の間違いを指摘しなくなります。ある程度話せるようになっているからです。意味が通じるから、先生の側から助言する必要が一切ないわけです。

もちろん、海外に出て、外国人と話をしても、向こうは特に注意などしません。

これが、子供だったら、言葉遣いを間違えた時に、同級生に冷やかされたり、親や先生に矯正されたりします。もちろん、学校に行っていますから、作文の授業もあるでしょう。

子供は、このような「検証と修正」のプロセスを行っているので、正しく話すことを身につけていくわけですが、大人は、ほとんどこのようなことをしません。

大人も、聞いたり話したりする習慣が身についても、基本に戻って正しい言い方を「学習」する人は極めて少ないのではないのでしょうか。

受験勉強で文法をしっかり勉強した人は、完了形の使い方など、自分で「間違った」とわかったら自分で修正できますが、そもそも勉強していない人は、簡単な原理なのに、いつまで経っても適切にhaveやhadなどを使うことができないのです。

たまには問題集を解いてみたり、書いた文章を添削してもらったり、1対1のレッスンで、先生にわざと悪役になってもらったりという努力を意識的にしなければ、正しい英語が身につくことは一生ないと思うんです。

これは、自戒の意味を込めて書いてます。


会社に入社してから1年と10ヶ月程度でしょうか。
TOEICを受けました。

ここでは、それまでのTOEIC体験と、全く異なることを体験しました。
TOEICを、初めて「簡単」と感じたのです。

リスニングは、普段聞いているCNNやNPRの生の英語に比べれば若干遅いな、と感じました。
ライティングは、感覚的に答えられます。正誤問題は、「なんとなく正しく聞こえるから」といった感覚で選ぶような感じです。

もう、TOEICで使われるような英語は、体に染み付いていて、もはや考える必要がない、というレベルにまで、いつの間にか達していたのです。
こんなことをいうと、「自慢しているんじゃないか」とか、「嫌味だ」と言う人もいるでしょう。

しかし、これは、考えてみると当然のことです。
私はそれまでの間、日常の中に英語を織り込み、すでに生活の一部として確立していたわけです。
だから、TOEICのような、ヒネリのない問題は、容易に、考える必要なく答えられるようになっていたのです。

こうして、このTOEICで、950点に達しました。

TOEIC950までの道は、これで終わりです。
あっけない感じがするかもしれません。

これまで、恐縮にも"TOEIC950までの道"などというタイトルで、個人的体験を書かせてもらったわけですが、かなり、まわりくどく、わかりにくかったかもしれません。
また、多くの人が、「ポイントは何だ?」と思われるかもしれません。
どちらかというと、「○○をして、××をしたら、950になったので、あなたもこうすべき」、と書いた方が、受けが良かったかもしれませんし、わかりやすかったかもしれません。でも、これは私だけの事例なんです。だから、なるべく正確に、起きたことを淡々と書きたかったということがあります。

また、真実は、「○○をすれば、900点を超える」などという、そんな安易な世界にはないのではないかと思っています。
実際には、いろいろな勉強法を試した過去があったり、受験のために勉強に腐心した経験があったり、試行錯誤と挫折があったのです。

たまたま、ブレークポイントが、ある勉強法の採用だったからといって、全てをその勉強法に帰して、それが万能であるかのように語るのは、バカげているのではないかと思ったのです。

最近、英語の勉強法について、「○○日であなたも英語が話せる」とか、「一日○分であなたもペラペラに」などとうたい、情報商材などを売っている人がいるみたいですが、ハッキリいって、白々しいと思います。

「あなたも英語が話せるようになる!」なんて…そんなの当たり前ですよ。
子供だってできるんですから。ロケットサイエンスではないのです。
日本以外の国は、第二外国語であるにもかかわらず問題なくしゃべれている人達はゴロゴロいます。必要以上に難しく思う必要はないんです。

唯一守らなければいけないルールは、時間をかけること、その中でインプット、アウトプットをとにかく多く繰り返すこと、これに尽きます。「英語ができない」と言っている人のうち、95%以上は単に時間を使っていない人ですから、安心して、これから時間を増やせば良いと思います。

タイトルで、「TOEIC950までの道」としたのは、950がすごいからというわけではなく、あくまでマイルストーンの一つとして最低限の目標を持ってもらいたかったということと、900点以上はペラペラだという幻想をあえて打ち砕きたかったことによります。前にも書いたことがありますが、本当にペラペラレベルを目指すのであれば、TOEICの満点は9900点のつもりで臨むべきです。

こういった書き方が、人を不愉快にさせているようであれば、お詫びします。
しかし、せっかく勉強するのに、目標が800、900というのはあまりにもったいないと思うのです。
もっと、上に目線を移す人が、たくさんいてもいいのではないかと思います。


TOEIC950をとった私は、「こんなものだったのか」という脱力感を覚えると共に、「まだまだ本物の英語力は身についていない」と思うようになりました。
読む、聞くはある程度できるようになったのですが、話す、書くは全くお手上げ状態だったのです。
そして、人生で最も英語学習にのめりこんだのは、この後のことでした。


たとえば、"Obviously"という言葉があります。

この言葉を辞書でひくと、必ず「明らかに」とか、「当然」といった訳が出てきます。
もちろんこういう言い方もありなのですが、文脈によっては、「やっぱり」とか、「どうせ」といったニュアンスを含んだ使われ方も多いのです。

He obviously had an idea about it.

これを、

彼は、「明らか」にそれについて考えを持っていた。

と訳すよりも、

彼は、「やっぱり」それについて考えを持っていた。

と訳した方が、自然にニュアンスが伝わる場合が多いことに気づいたのです。
だからといって、私が「やっぱり」を辞書に加えろ、と主張しているわけではありません。
「やっぱり」を加えても、Obviouslyを完全に表現するのは、ムリなのです。

本来、Obviouslyという言葉は、Obviouslyという言葉以外の何モノも意味しないので、完璧な訳など存在しません。
何とか、近い言葉は何かを探して、日本語に置き換え、解説しようとすと、途端に思考がしばられてしまいます。英語??日本語の翻訳を行っている限り、自然な英語を使いこなすことは不可能だと思います。

したがって、Obviouslyは、Obviouslyとして覚えなければならないわけですが、たった一回聞いただけでは、その微妙なニュアンスを感覚的に理解することはできません。

理想的には、3回以上、同じような使われ方を聞くことで、自然な形で頭に入っていくことでしょう。

一つのセンテンス、一つの単語でさえ、数回聞かないと、文脈に即したニュアンスを把握できません。
ニュアンスが完全に把握できていない限りは、そのセンテンス・単語がいざという時に口から出てくることはないのです。

辞書に頼るのもいいし、英語系メルマガでいろいろな意味を知るのはいいのですが、できるだけ生のコミュニケーション現場(インプット・アウトプット共に)に身を投じて、状況に応じた語の使い方を大量に浴びることを心がけた方が後々役に立ってきます。



私が最初にニュースを、全体像で理解することができたのは、ティモシー・マクベイ氏の処刑に関する一連のニュースが流れていた時でした。

ティモシー・マクベイ氏というのは、95年オクラホマ州の連邦政府ビル爆破事件の犯人です。
死刑が確定していたのですが、それを1ヶ月前くらいから、報道していました。

このような死刑が行われるたびに、アメリカでは死刑反対の市民運動が起きたりします。
したがって、そういったニュースが、彼の死刑の前にずっと報道されていたのです。

私は、これらのニュースを毎日のように聞いて、だんだん彼の置かれた状況がわかるようになっていました。そして、実際に死刑が執行されるまでの間、Webサイトや新聞などで情報を仕入れ、関心を深めていました。

関心が深まると、毎日そのニュースが気になって仕方なくなります。
そうなると、もはや英語を勉強しているという感覚がなくなるのです。

日記は、だんだんそのニュースのことを書くようになります。
また、英会話学校に行き、そのことについて話すようになります。

こうなると、英語力の伸びは一層早くなります。
これと似たようなことを、いろいろなニュースで実現すれば、良いのです。

9/11のテロは、この数ヶ月後に起きました。
その時、テレビは押入れにしまっていたので、インターネットしか情報源がありませんでした。

テロ直後は、主要メディアのサイトにつながりにくかったのを覚えています。
翌日以降は、数ヶ月テロの報道が中心で、その時期にたくさんの生の声を、現地から聞けたのは良かったと思いました。

こんな形で、日常的に相当量の英語を接触時間を保っていました。


TOEICを再び受けたのは、その矢先のことでした。


社員1年目??2年目にかけては、飛躍的に英語への接触時間が伸びました。
この頃は、とにかくインプットとアウトプットのサイクルが大量に行われていました。
日常的に、以下のようなことを行っていました

聞く: DVDで映画を繰り返し見て、暇な時はインターネットのラジオ(NPR、CNN)を流していました、またCNNなどのサイトで動画や音声ニュースを聞いていました
読む: "Who Moved My Cheese?", "Rich Dad, Poor Dad"などの本を読んでいました、またHerald Tribuneという新聞を読んでいました
話す: AEONやCICOMといったスクールで英語を話していました
書く: 手帳を、全て英語に切り替え、簡単な日記を英語で書くようにしました、またAEONの先生に、作文を見てもらっていました

このようなインプット、アウトプットを増やしていった結果、伸びた英語力の土台を利用して、ますます多くのインプット・アウトプットができるようになっていったのです。

当初は、決意をゆるく持ち、「日本語だけの生活」をあきらめたわけですが、
このサイクルに入ると、だんだん「英語のない生活」が、単純にありえなくなってきます。

これを数ヶ月続け、最初は雑音のかたまりだった、ラジオの声が、意味をもった言葉の集合体に聞こえる、ということを時おり体験するようになりました。

ラジオで聞いたことを新聞で確認したり、Webサイトで見たりすると、同じニュースに対する接触頻度が増え、同じ事象に対する説明を何度も聞くことになります。そうすると、そのニュースに対しては、"耳"ができてきます。次にそのニュースの進展を聞くときには、その内容を理解する土台ができあがっていますから、ますますそのニュースを理解することができるようになります。

これを続けていくと、今度は、そのニュースに関連する単語やセンテンスが、勝手に口から出てくるようになります。同じニュースを繰り返し聞いていて、頭の中でできあがった文章を、確かさをもって話せるようになるのです。

よく、一日○分英語教室、などのようなメールマガジンがあります。
「こういう言い方をするんだ」と思えること自体はいいのですが、たった一回のインプットしか得られないんですね。たった一回のインプットを、自信を持ってアウトプットに変えることができるはずがないのです。

だから、ああいったもので、真剣に勉強している気になるのは間違いです。

少なくとも、同じような意味を持つセンテンスを、3回以上聞かないと、微妙なニュアンスを頭にインプットできないものです。
辞書的な英語でなく、天然の英語のインプットを、大量に行うしか道はないのです。


よく、

「海外に行って住めば英語がペラペラになる」

という人がいますが、これはもちろんウソです。

アメリカ一つとっても、Los Angelesや、New York Cityに住んでいると、日本食のレストランはたくさんあるし、日本語の情報源も、コミュニティも、あらゆるサービスもそろっています。日本語で、車の免許をとることすらできます。

こうした場所に来て、いざ英語でアメリカの業者を利用しようと思っても、信用できなかったり、言葉が通じなかったりして、日本語の業者の方がやはり便利だと感じるのは当然です。私も、日本人に対しては圧倒的な信頼感を感じるため、重要な案件では、日本人の業者を使うこともあります。

しかし、この状況は、逆に言うと、「英語がしゃべれなくとも、生きていける」ということであり、当初想定していた「話す必要に迫られて、必然的に英語がうまくなる」という状況を作りにくい現状があるということです。

それでも、ビジネスをやっていれば、必ず英語は必要になってきますから、必然的に話すようにはなります。
しかし、留学生などで来て、授業以外に練習の場所がない人は、ある意味大変です。
日本にいた時に、自主的に英語を学習する癖を身につけず、「誰かが自分に何かをしてくれる」ことを期待している人には、文字通り何も起こらない、ということが発生します。

「海外で3ヶ月みっちり練習すればマスターできる」といったような幻想は抱きたいものです。しかし、そもそも日本で、量をこなして練習していないのに、普通に考えて、そんな都合のいいことが起こるはずがないんです。

誰か外国人が日本人が来て、あなたに「日本語を3ヶ月でマスターしたい。日本語が読めるようにもなりたいし、書けるようにもなりたい。日本の映画を字幕なしで理解して、全ての日本人とペラペラしゃべるようになりたい」と言ったとしましょう。

そんなことできると思いますか?

ムリですよね…。



でも逆に、3ヶ月ではムリにしても、上達する秘訣があるとしたら、あなたはどんなことを言って、その外国人に日本語上達の秘訣を教えますか?
そこで、あなたが外国人に教えた秘訣こそ、自分が外国語を学ぶ上で、まず最初に試すべき勉強方法なのです。



私の場合はとにかく、聞く、読む、話す、書くのインプット、アウトプット、その検証と修正を繰り返すこと。それを「かなりゆるやかな決意」で、一生死ぬまで行うと考えること。日本語だけの生活をあきらめること。

こうして日々の取り組みの中に英語が組み込まれ、接触の絶対量が積み上げられるようになるのです。
そして、その絶対量こそが、最終的に「ペラペラに話せる」能力を生むのだと、確信しているのですが、これは日本にいても、できるのです。

それをなるべく多くの人に知ってほしいものです。

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