昨日のブログでとりあげた記者は、同宗教の有名人メンバーに、「あなたはひょっとして洗脳されているんじゃないのか」ということをしきりに聞いていました。

誰かに向かって、「あなたは洗脳されている」と言うのは、侮辱以外の何物でもありません。なぜなら、洗脳されているかどうかは、本人では絶対にわからないからです。だからこそ、「洗脳」されているのです。

だとしたら、その質問は、聞くだけムダなのです。言ってもムダなことをあえて言うのは、相手を貶めたり、挑発したりする意図があるからで、プロの記者がそのようなことを言うべきではありません。

洗脳について語る時に注意すべきことは、「他人の洗脳を指摘している自分は、何かに洗脳されていないか」ということです。世界に誰一人として、「自分が洗脳されている」ということを知っている人がいるはずはありません。


しかし、一方「普通」の人生をおくっている自分に対して、「自分は何かに洗脳されているかも」と仮説を置いて質問することは、新しい世界を開くきっかけになるのではないかと思います。

例えば、オウム真理教の事件が起きた時、ほとんどの人は、同教団の人たちは教祖に洗脳されている、と思ったのではないでしょうか。私もその一人です。

ただ、「この教団は洗脳集団だ」と、限られた情報から疑いなく断定できるとしたら、そのこと自体の方が問題だとおもうのです。その断定の裏には、「自分の情報判定能力には、曇りがない」という慢心(=自分は洗脳されていないという根拠のない主張)が隠れていると思います。


新しい世界が開けた時に、「自分の視野は狭かった」という開きを経験することは社会生活をおくる上で多々あると思います。「自分には、まだ知らないことがあるんじゃないか」「今までの限られた自分の人生経験では、答えを出せないことがあるんじゃないか」と言った問いかけは、知的好奇心を刺激し、新しい可能性を広げてくれます。

「自分は何も知らない」という土台に立つようにしたいものです。