日本にいた時は、よく「アメリカと日本」の比較をしていました。
こういう話は今でもするんですが、昔は、自分の置かれている現実に言い訳を与えるのに都合が良いから、「アメリカでは○○なのに、日本では××だ」とか言うわけですね。
でも、そこにはあまり現実はなくて、思い込みだけだったりします。
たとえば、
- アメリカ人はオープン -> 心を閉ざしているアメリカ人もたくさんいます
- アメリカ人は直接的 -> 実際には間接的な物言いをすることがよくあります
- アメリカ人は単純 -> 単純に見える人もいるし、複雑に見える人もいます
- アメリカ人はデブ -> 痩せてる人もたくさんいます
- アメリカ人は享楽的 -> ストイックな人もたくさんいます
- アメリカ人は表層的 -> 誠実な人もたくさんいます
- アメリカ人は5時に帰る -> 真夜中になっても仕事をする人はたくさんいます
- アメリカ人は家族中心 -> 家族を中心にしてない人もたくさんいます
- アメリカ人はアメリカが好き -> 自国を嫌いな人・批判的な人もたくさんいます
平均的な日本人と比べた時の「傾向」はあるのかもしれません。
しかしながら、これといった解答はないんです。
解答がないのに、あくまでもそれがリアルであるかのように、こういう話に興じていたことを思うと、虚しくなってきます。
アメリカ人について、唯一いえるのは、「バラバラ」だと言うこと。
とにかく、そのバラバラ度が半端ではないんです。
特に、ニューヨークにいると、それが顕著になります。
この環境に慣れている人は、相手を全て「想定外」である可能性を持って接してくるんですね。
私の身の回りにいる人たちを思い浮かべても、ウクライナ出身アメリカ人女性、17歳白人少年(親がユダヤ系+イタリア系)、アルゼンチン出身の韓国系カナダ人…その人一人につけられる形容詞が非常に多いのです。国籍もバラバラだったりするので、もはやアメリカ人、というよりも単に「人」がいるだけですね。
たまに日本人に会って「アメリカ人は○○だから…」ということを言って、勝手に卑屈になっているのを聞くと、少し首を傾げたくなるんですね。実はそんなことを言っている日本人も、アメリカ人(というよりも単に「人」)の仲間の一人として見られ、扱われていることに気づいてほしいんです。
現実には、たくさんの人がバラバラのバックグラウンドと個性を持って生きている、というだけの話です。こういう環境の良いところは、「こうすべき・あるべき」という観念が比較的少なく、自分自身を縛るものがないために、自分に対していろいろな可能性を創りだしていける、ということだと思います。
人と接するたびにいろいろなインスピレーションを受けることができる、そういう意味で、私個人的にはこの「バラバラ度」は歓迎です。
こういう話は今でもするんですが、昔は、自分の置かれている現実に言い訳を与えるのに都合が良いから、「アメリカでは○○なのに、日本では××だ」とか言うわけですね。
でも、そこにはあまり現実はなくて、思い込みだけだったりします。
たとえば、
- アメリカ人はオープン -> 心を閉ざしているアメリカ人もたくさんいます
- アメリカ人は直接的 -> 実際には間接的な物言いをすることがよくあります
- アメリカ人は単純 -> 単純に見える人もいるし、複雑に見える人もいます
- アメリカ人はデブ -> 痩せてる人もたくさんいます
- アメリカ人は享楽的 -> ストイックな人もたくさんいます
- アメリカ人は表層的 -> 誠実な人もたくさんいます
- アメリカ人は5時に帰る -> 真夜中になっても仕事をする人はたくさんいます
- アメリカ人は家族中心 -> 家族を中心にしてない人もたくさんいます
- アメリカ人はアメリカが好き -> 自国を嫌いな人・批判的な人もたくさんいます
平均的な日本人と比べた時の「傾向」はあるのかもしれません。
しかしながら、これといった解答はないんです。
解答がないのに、あくまでもそれがリアルであるかのように、こういう話に興じていたことを思うと、虚しくなってきます。
アメリカ人について、唯一いえるのは、「バラバラ」だと言うこと。
とにかく、そのバラバラ度が半端ではないんです。
特に、ニューヨークにいると、それが顕著になります。
この環境に慣れている人は、相手を全て「想定外」である可能性を持って接してくるんですね。
私の身の回りにいる人たちを思い浮かべても、ウクライナ出身アメリカ人女性、17歳白人少年(親がユダヤ系+イタリア系)、アルゼンチン出身の韓国系カナダ人…その人一人につけられる形容詞が非常に多いのです。国籍もバラバラだったりするので、もはやアメリカ人、というよりも単に「人」がいるだけですね。
たまに日本人に会って「アメリカ人は○○だから…」ということを言って、勝手に卑屈になっているのを聞くと、少し首を傾げたくなるんですね。実はそんなことを言っている日本人も、アメリカ人(というよりも単に「人」)の仲間の一人として見られ、扱われていることに気づいてほしいんです。
現実には、たくさんの人がバラバラのバックグラウンドと個性を持って生きている、というだけの話です。こういう環境の良いところは、「こうすべき・あるべき」という観念が比較的少なく、自分自身を縛るものがないために、自分に対していろいろな可能性を創りだしていける、ということだと思います。
人と接するたびにいろいろなインスピレーションを受けることができる、そういう意味で、私個人的にはこの「バラバラ度」は歓迎です。

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