それって、理由になってるの?…と思うことってよくありますよね。

たとえば、古典的な例では

「なんで宿題を忘れたんだ」
「宿題はやったんですけど、持ってくるのを忘れました」

やってきた宿題を提出することがコミットメントなのに、持ってくるのを忘れましたとか、犬が食べてしまいましたというのは理由になっていません。


大人になると、これが段々と巧妙になってきます。

「年末は仕事には来るの?」
「年末は実家に帰らなくてはならないため、行けません」

年末だろうと何だろうと、来ようと思えば来られますよね。実家に帰るという、「自分ではコントロールできない(ように見える)こと」に、自分の選択責任を放棄しているわけです。

「仕事は自分にとって大事だが、年末は実家での時間が、仕事よりも大事だ。だから、私は帰ることを選択する」と会話ができれば、どんなにすばらしいコミュニケーションになるでしょうか。


国家レベルでは、ひどいことが起きます。

「なんでイラクを攻撃するの?」
「大量破壊兵器を持っているし、テロリストを養成しているからだ」

大量破壊兵器を持っていて、テロリストを養成しているのは許せないにしても、だから攻撃を始める、というのは理由になっていません。
結局、やりたいことがあるのに、それを何か違うもののせいにしているから、聞いている方としては、違和感があるわけですね。



ついつい、自分の口からも、「○○だから、××できない」とか、「私は△△な人間だから、○○する」などと口走ってしまうことがよくあります。


しかし、余計な理由づけなど、何の意味もないんですね。
全ては、自分の自由な選択と、その結果が待っているだけだと思います。