中学生のある時、興味半分で落語のCDを図書館で借りました。

初めに借りたのは、桂米朝という噺家のCDだったのですが、あまりの面白さに、部屋の中で一人で爆笑してました(相当不気味ですね)。

桂米朝を借り切った後は、桂枝雀(米朝の弟子)という人のCDを片っ端から借り始めました。枝雀の落語は米朝とは比較にならないくらいツボにはまり、中毒になってしまいました。
もちろんこの趣味を友達に教えたことはありません。

大学生になって東京に住んでいた時に、ある時「落語を生で見てみよう」と思い立ち、新宿の末広亭という寄席に足を運びました。行ったのは、レイトショーのようなもので、平日の夜に行われているものです。

落語家は、前座、二つ目、真打というグレードがあるのですが、そのレイトショーには、真打がいませんでした。3人くらい噺を披露して、終わってしまいましたが、正直言って、大して面白いと感じませんでした。


数ヵ月後に、今度は日曜にやっている寄席に足を運びました。

朝から晩まで、いろんな噺家が出てきて、しかもグレードがどんどん上がっていきます。ベテランの真打がたくさんいて、寄席は爆笑で包まれていました。



途中、ある噺家が、彼の演目をはじめました。
その時、私は気づきました。その演目は、以前レイトショーに行った時に、二つ目の人が披露していた演目と全く同じだったのです。

しかも、演目が同じだというだけでなく、セリフも一字一句、全く同じだったのです。どうやら、以前見た二枚目と、この真打は師弟関係なんだな、と思いました。

しかし、噺の内容・セリフが全く同じであるにもかかわらず、その面白さの違いは歴然としていました。レイトショーではあまり笑えなかったこの演目が、この真打の手にかかると、爆笑の渦を巻き起こすのです。

微妙な発音の仕方や表情、間の取り方が違うのはわかるのですが、何かそれ以上の違いを感じました。おそらく、一ついえるのは、言葉の一つ一つが、その噺家にとって、「自分の言葉」になっていること。

借り物ではない自分の言葉で物事を語っている人には、真剣に聞き入ってしまう何かがありますよね。
そんなことを教えてくれた体験でした。