Jury Selectionの翌日、9時半に出廷すると、また、大きな法廷で待たされることに。
30分くらい経つと、係員に呼ばれ、"参加証書"を受け取り、帰ることになりました。

今回、はじめて陪審員というアメリカ人の行事に参加したわけですが、ちょっと感想を述べたいと思います。

<待ち時間が長い!>

今回、陪審員候補として出廷するにあたって、周囲のアメリカ人に、「陪審員の仕事ってどんなものだ?」と聞いたのですが、皆そろって口にするのが、「待ち時間が長いよ」ということ。実際に行ってみると、合計で8時間くらいでしょうか、非常に長いことだだっぴろい法廷の中で待たされました。実際に陪審員として必要な人数の3倍くらいを集めていると思われるので、一気にガバッとたくさん集めて、集めた中から適当に裁判のケースを割り当てているような印象を受けました。おそらく、陪審員候補に対して、ケースを割り当てるプロセスが、自動化されていないのでしょう。IT政府化がかなり進んでいるこのアメリカでも、まだまだ改善の余地はありそうです。


<スポーツ的面白さ>
今回、陪審員選定というプロセスに、実際に居合わせることができて感じたのは、弁護士のエネルギー。原告・被告双方ともに、スタイルこそ違いましたが、何が何でも勝つ、という気迫を感じました。と同時に、弁護士という職業の本来的な「おもしろさ」を垣間見たような気がしました。

日本は、そもそも弁護士になる上でのハードルが高いために、まず「世界の違い」を感じます。したがって、私自身、今までは、弁護士業そのものの面白さよりも、日本一難しい司法試験や、一旦試験をパスした後の地位の高さ、一生食べるに困らない安泰の生活、などのイメージが先行していました。

しかし、この陪審員選定プロセスを通してみたのは、「論理を展開して、人を説得することって、おもしろくて、快感かもしれない」「弁護士業って、メチャクチャ面白いかもしれない」ということです。

私は企業コンサルティングに従事しておりましたが、人を説得するということは、必ずしも論理的なプロセスではなく、実際には人的要素や、いろいろな泥臭いコミュニケーションが必要となってきます。しかも、お客さんの業績が上がったとしても、そこにはいろいろな要素が存在して、必ずしも自分たちの提案が良かったとはいえません。

しかし、裁判には必ずルールがあり、審判(判事)がいて、最後は白か黒か決着がつき、弁護士の主張いかんで、全ての結論が変わってしまいます。それはある意味スポーツのようです。
かつて、OJシンプソンや、タバコ会社訴訟など、数々の難しい裁判があったと思うのですが、下された結論はどうであれ、勝った弁護士は、さぞかし気持ちが良かったのではないかと思います。一度勝ったら、やめられないのでは、とさえ想像してしまいます。

<陪審員の苦悩>
そのスポーツ的おもしろさの一方、陪審員は、一人もしくは複数の人間の運命を大きく変える決定に関わってしまうことに対して、大きな恐怖感と、苦悩を持っています。参加していた女性の中には、陪審員選定の自己紹介の時点で、震えてまともに話のできない人もいました。これまでに、ミスジャッジや、判定の覆りが、少なからず起こっているはずです。

自分の下した決定で、一人の人間が、間違って死刑室に連れて行かれるかもしれない。殺人鬼を野に放してしまうかもしれない。こんな重要な決定は、誰が行うとしても強い精神力が必要なことです。


<陪審員という制度について>
養老孟司さんが何かの本に書いていたような気がしますが、民主主義では、「みんなが正しいと思っていることが正しい」んですね。法律もその解釈も、人の価値観も、時代によって変わります。陪審員制度は、完璧な制度ではないし、賛否両論はありますが、「その時代に生きる一般庶民の良識をもとに、正しいか正しくないかを決められる」と言う意味では、すばらしい制度だと思います。日本が裁判員制度を導入しても、その良さが保たれることを願っています。


今回の陪審員選定プロセス参加で、なぜ、アメリカでこれだけ法廷小説・ドラマ・映画がここまで普及しているのか、理由がよくわかりました。犯罪という非日常性、原告・被告側の、スポーツのような論理ゲーム、そして自分自身の意思決定参加、という要素が、アメリカ市民を魅了し続けるのでしょう。