Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

July 2006

中学生のある時、興味半分で落語のCDを図書館で借りました。

初めに借りたのは、桂米朝という噺家のCDだったのですが、あまりの面白さに、部屋の中で一人で爆笑してました(相当不気味ですね)。

桂米朝を借り切った後は、桂枝雀(米朝の弟子)という人のCDを片っ端から借り始めました。枝雀の落語は米朝とは比較にならないくらいツボにはまり、中毒になってしまいました。
もちろんこの趣味を友達に教えたことはありません。

大学生になって東京に住んでいた時に、ある時「落語を生で見てみよう」と思い立ち、新宿の末広亭という寄席に足を運びました。行ったのは、レイトショーのようなもので、平日の夜に行われているものです。

落語家は、前座、二つ目、真打というグレードがあるのですが、そのレイトショーには、真打がいませんでした。3人くらい噺を披露して、終わってしまいましたが、正直言って、大して面白いと感じませんでした。


数ヵ月後に、今度は日曜にやっている寄席に足を運びました。

朝から晩まで、いろんな噺家が出てきて、しかもグレードがどんどん上がっていきます。ベテランの真打がたくさんいて、寄席は爆笑で包まれていました。



途中、ある噺家が、彼の演目をはじめました。
その時、私は気づきました。その演目は、以前レイトショーに行った時に、二つ目の人が披露していた演目と全く同じだったのです。

しかも、演目が同じだというだけでなく、セリフも一字一句、全く同じだったのです。どうやら、以前見た二枚目と、この真打は師弟関係なんだな、と思いました。

しかし、噺の内容・セリフが全く同じであるにもかかわらず、その面白さの違いは歴然としていました。レイトショーではあまり笑えなかったこの演目が、この真打の手にかかると、爆笑の渦を巻き起こすのです。

微妙な発音の仕方や表情、間の取り方が違うのはわかるのですが、何かそれ以上の違いを感じました。おそらく、一ついえるのは、言葉の一つ一つが、その噺家にとって、「自分の言葉」になっていること。

借り物ではない自分の言葉で物事を語っている人には、真剣に聞き入ってしまう何かがありますよね。
そんなことを教えてくれた体験でした。

以前、ブログでLandmark Educationというものを紹介しましたが、この週末で、私はLandmark Forum Advanced Courseという3日間のセミナーを受講してきました。

対話と問答などにより、いろいろな気づきと、可能性の発掘をしていくのですが、今回の大きなブレークスルーは、「全てが関連している」ということ。

自分は、どちらかというと今までは自分の信じるものに他人を巻き込んでいく、ということに対して躊躇を感じていました。他人との衝突や軋轢が常に存在すると思っていたからです。しかし、自分が衝突や軋轢だと思っていたものは、自分が勝手に作り出した幻想で、そこに何一つリアルなことはない、ということに改めて気づかされました。

私は、以前は皮肉と茶化しとあきらめの支配する環境にどっぷりつかっていたように思います。そうした環境の中にあって、必ずしも他の人と同調をしていたわけではありませんが、自分が歴史に学んで、原則にしたがって、一人でいい人生をおくれればそれでいいと思っていました。

しかしながら、それは自分が嫌っていた「あきらめ」の一種であることに気づきました。「他人に何を言っても、どうせ変わらないだろう」とか、「自分の考えていることなどわかってもらえるはずがない」などと考えていたのです。

しかし、自分が他人やコミュニティ、もしくはもっと大きな社会に対してインスピレーションの源になれるかもしれないという漠然とした可能性を見出すことができたように思います。また、そういう可能性を、他のあらゆる人の中に見出すこともできるような気が、現在はしています。


今とりかかっているプロジェクトに関してもそうですが、もっといろんな人を巻き込んでいければと考えています。

ものすごく簡単なアイデアなのに、大きなブレークスルーをもたらす商品というのはたくさんあると思うのですが、以下の商品は、その最たるものです。

http://www.wordlock.com/

この商品は、数字の変わりに文字を組み合わせるタイプのカギです。
使い方は誰の目に見ても明らかな通り、自分の好きな文字を組み合わせることで、鍵を開けることができます。

なんで、こんな簡単な商品が、鍵の誕生以来なかったんだろう…と疑問に思います。
不思議ですよね。

おそらく、数字は10進数だから、10ケタだから、鍵の回転部分に収まるが、アルファベットは26文字だから、直感的に収まらない、という様な固定観念というか、無意識の壁があったのかもしれません。

でも、実際には26文字を全て入れ込む必要はないわけで、そこに「別に26文字全部入れなくてもカギは作れる」と誰かが発想できたのは、すごいことだったのかもしれません。

日本語は、ひらがなで50文字ですが、それでも日本語バージョンもつくれるかもしれませんね。

政府の要人や、国会議員が、固いイメージを払拭しようと、コメディ番組に出演することは、よくありますよね。

Steven Colbert Reportというトーク番組で、Robert Wexlerという議員が出演した時の話です。ホストのStevenが、

「それでは、次の選挙であなたが確実に落されるとしたら、どのような発言をすべきか、考えて見ましょう」

と、切りかかります。
議員が困惑しているところへ、

「次の文章につなげて言ってみてください。"私はコカインが好きです。なぜなら…"」

議員は、コメディ番組なので、自分のおどけた所を見せようと、マジメに答えようとします。

「私はコカインが好きです。なぜなら、それは楽しいことだからです」

Stevenは続けて次の文を作るように求めます。

「"私は売春婦が好きです。なぜなら…"」

議員は、それでもコメディアンの期待にマジメに応えようとします。

「私は売春婦が好きです。なぜならそれは楽しいことだからです。」

「そうですか。コカイン同様楽しいんですね」

「そうですね。コカインと同じように楽しいです」


しかし、次の瞬間、この議員、聞かれてもいないのに、誰も予想してなかったことを、口に出してしまうのです。


「たぶん、その2つを組み合わせたら、もっと楽しいでしょうね!」


質問に答えて黙っていればよかったのに、この一言が、あまりにも議員自身の口から素直に出てしまったために、後から非難が殺到したそうです。


演技と本心の境界は曖昧に見えます。
彼は、本当に選挙で落されるかもしれませんね。

私はブログを毎日書いてはいませんが、遅れてでも365日分書くつもりではいます。
しかし、このところ、それが停滞していました。

その原因は、「理解に意味はない」ということを思い始めてしまったからです。

たとえば、あるニュースに関していいたいことがあって、そのニュースに関する解釈をブログに書いたとしましょう。それに対して、コメントなり、トラックバックなりがあったとしましょう。

それで、世界は一歩進んだのかな?という純粋な疑問がわくのです。

要するに何をブログに書けば、意味があるのかということを考えた時に、「私はこれに対してこんな理解をしました」というのは、どうなのかなぁ、と。

ダイエットをしたいという人は、ダイエットの方法を知らないわけではありません。
「隣人愛が重要」とわかっていても、できない人はたくさんいます。

こういったことは、何か物事を理解したからといって、現実が変わらないということを示す最たるものだと思うんですね。

しかも、さらにむなしいのは、今こうして「理解に意味はない」という自分の認識を書いているわけですが、そのこと自体の理解にも意味はないなぁ、と思っているんです。





意味はなくてもいいのかもしれません…。

とりあえず書きたいから、書き続けましょう。
それでいいような気がします。

大学 - 社会人時代、私はテレビを持っていない時期がありました。

なぜテレビを持たなかったかというと、自分にとって、テレビの中で起こっていることが、現実ではなかったからです。「これは、ただの箱に映っている絵だ」としか思えませんでした。

その箱に映っているあらゆる凶悪事件、政治のゴタゴタ、芸能人のゴシップ、地震等の災害、自分にとって何一つリアルなものがなく、自分が直接影響を与えられないものを、見てもしょうがないと思っていたのです。

あと、テレビを長く見てしまった後の、何ともいえない虚脱感と罪悪感がありました。何か、悪いことをしてしまったかのような感触を覚えていました。

今でも似たようなことは感じています。

しかし、テレビを見ないことで達成したかったのは、別のことだったのかなぁ、と今では反省してます。要するに、「自分は他人と違う」とか、「テレビを見ないことが正解であって、それを実践している自分は正しい(かつ他人は間違っている)」と考えていたように思います。


最近のテーマである「とらわれない」という見方からすると、別にテレビを見ること自体には何にも善悪はないなぁと思っています。


私の部屋には現在テレビがありますが、やはりほとんど見ません。
でも、見る時は見る、という付き合い方をしています。
これが、理想なのかな、とひそかに自分では考えています。

今日は、NY, NJにお住まいの方々へ宣伝です。

8月に、私のオフィスで奨学金セミナーをやります。

奨学金セミナーに出ると、アメリカの政府、州、大学から、どのようにFinancial Aidが出るのか、ということが体系的に理解できます。

これを知って準備をするのとしないのとでは、実際の学費負担に大きな影響が出てきます。年間$15,000 - $50,000にもおよぶ学費負担と、それに対するFinancial Aidが与える家計へのインパクトはすさまじく、年間で数万ドルの負担が微妙なさじ加減によって変わってきたりもします。

私はこのFinancial Aidに関するコンサルティング事業および申請代行サービスを、昨年初めて在米の日本人に対して行いました。同様の情報・サービスを提供している日系人や、日系の会社はなく、この分野については誰よりも知っているという自負があります。

当初は、フィナンシャル・プランニングをしていた私自身が、「何か強みが欲しい」と思って2年前から研究し、取り組んできたテーマでした。つまり、当初は純粋に、私の個人的な「ビジネス戦略」として開始しました。しかも、主な顧客層は、ロングアイランドに住む現地の一般アメリカ人でした。

しかし、いろいろな日本人のお客様にお会いし、いろいろな方にフィードバックを受けるにつけ、このアメリカの大学のFinancial Aidに関する知識が、在米の日本人に広まっていないこと、そして、今この時点で、将来の高い学費に頭を真剣に悩ませている人がたくさんいることがわかりました。

それを考えた時、私一人が情報を出し惜しみして、相談にやってくる方だけに対応していていいのかと思うようになりました。

また、お子様を大学に送り出すという人生の大イベントの中で、様々な家庭の悲喜こもごもを目の当たりにするにつけ、私自身が中途半端に身勝手な「戦略」などと位置づけていることに、おこがましさを感じるようになりました。


現在の私は「アメリカの大学の学費情報を、アメリカでお子様を持つ全ての家庭に届ける」ということをミッションとして、全てのリソースをかけてやり遂げることにしています。数年かかるでしょうが、ぜひともなし遂げたい目標で、西海岸にも早く進出したいと思っています。



私の持っている情報やサービスを利用すれば、いきなり数万ドルのお金が降ってくるわけではありません(実際には、いくつかそういう例もありましたが)。家族の状況によっては、どうがんばってもFinancial Aidを1ドルももらえないこともあることは事実です。

しかしながら、「もらえない」ということがハッキリわかり、それを踏まえて上で何ができるのかがクリアになるだけでも、大きな時間の節約価値があると思うのです。

もちろん、多くの人は、Financial Aidの支給対象になりますから、どのようにして1ドルでも多くもらうか、ということを知ることには、当然大きな価値があります。


今までは、無料相談で1対1という形で受付をしていましたが、より多くの人にこの知識を広めていきたい、という思いで、セミナーを開催することにしました。


8月は、全部で5回やります。
参加者が1人でも、真剣にやります!


というわけで、NY, NJ, CTにお住まいの方は、ぜひご参加ください。1人15ドルですが、お友達をお連れの方は、1人10ドルでOKです。

お金をいただくのは、ある程度真剣な方にお越しいただきたいのと、この情報の普及を加速させるために、再投資させていただきたいからです。
セミナーの内容が全く役に立たなかったら、全額お返しいたします。


ぜひともご参加ください。


セミナーの案内
http://gakuhi.livedoor.biz

新しいMidtown Planningウェブサイト
http://www.midtownplanning.com

高校の時、将棋にハマっていました。

17才の青春を、全て将棋につぎこんでいました。
その熱はすさまじく、当時入っていた柔道部の怖い担当教官に「将棋をやりたいから私はこれから週3日しか部活に出ません」と真剣に直訴してしまうほどでした。

お小遣いをもらうと、将棋の本を買いに行きました。
羽生さんや谷川さんの本を開きながら、何度も何度も将棋盤とにらめっこをしながら、空想の中で戦いを繰り広げていました。
授業中は先生に隠れて詰め将棋の問題集を解き、休み時間は将棋部員と勝負に明け暮れていました。



こういう生活をしているうちに、段々とどうなるかというと、見るもの聞くもの触れるもの考えること全てが将棋になってしまうんです。

例えば、廊下ですれ違う学生一人一人が将棋の駒に見えてきます。
そうすると、「あいつは角なのに、なんでまっすぐ歩いてるんだろう」と素朴な疑問がわいてくるようになります。

教室に入ると、もっとすごいことになります。
机の並びが、そのまま将棋盤に見えてきます。
数学の時間に居眠りをしているときに、斜め後ろのそのまた後ろの生徒が、「桂馬」であったことに気づいた時には、ビクッとして飛び起きてしまいました。
「とられる!」と直感的に生命の危険を感じたのです。


「はまる」というのは、こういうことだったんだな、と今は思います。
「一生懸命将棋をがんばろう」とすら微塵も考えていませんでした。
ただ、ひたすら将棋で頭が一杯だっただけなんですよね。
しかし今考えると、あれほど幸せな時間はなかったように思います。



あそこまで身も心も没頭できるものは自分に現れないのか…あれ以来、いろいろと模索を続けてきましたが、そろそろ何か見つかりそうな気がしてます。
もちろん、仕事関連ですが。

どこかの宗教に属しているか、属していないかということを問うことがありますが、私の理解では、日本では「○○教に属している」などというと、どこか奇異の目で見られることがあったように思えます。

「宗教に頼る」とか、「宗教にすがる」という表現がされたりするのは、それが何か、通常であれば必要のないもの、という前提があるからではないでしょうか。

でも、いろいろな宗教を見てると、人間が自然に対する征服力が弱かった頃から、「どう生きることが幸せか」「自分はどうあるべきか」ということについて法則と答えを与え続けてきたものだと思うんですよね。私は「自分がどうあるべきか」ということを問うこと自体が、宗教そのものなのではないかと思うんです。

その根底にあると思えるのは、「死ぬとどうなるのか」ということ。
考えてみると、生きている人が、これに答えを出すことはその定義上不可能なわけで、これは人によって、違ってきます。

この前提が宗教によって違っていると、その宗教に属している人の生き方が違ってきますよね。

地上の世界で自分の宗教が勝利することが、来世の幸福を約束するのであれば、そのために身を投げても異教を攻撃しますし、死後の世界には何もない、とか、みんな天国に行ける、ということであれば、ひたすら現世は享楽的な人生を送ることになるのかもしれません。

稲盛和夫氏の本で、哲学について語った本があるのですが、


稲盛和夫の哲学―人は何のために生きるのか


氏は仏教徒なのですが、ここで「魂のレベル」について語っています。
人には魂のレベルがあって、それを向上させていくと、魂が肉体を離れた時(死んだ時)も、同じレベルを保つことができると。そして、その魂が次の肉体を持つときに、またその魂のレベルから人生をスタートができるといいます。

その根拠は、ビッグバン以来、全宇宙は膨張し続け、常に進化の方向に向かっているから、ということを述べています。
私は、この記述を読んでかなり脳内に刺激が走るのを感じたのですが、いかがでしょうか。今まで絵空事のように思えていた仏教の世界が、はじめて自分にとって現実的なもののように思えてきたのです。
まぁ、私も数年前であれば、同じことを聞いても「はぁ?」と言う感じだったとは思いますが。

これは、そういえば、斉藤一人氏の本にも、似たようなくだりがあったような気がします。

変な人が書いた成功法則



とりとめがなくなりましたが、この探求はまだ続くでしょう。

先日の新聞記事から

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福田氏不出馬、森氏が表明前夜に決断促す
 自民党の森喜朗前首相は23日、金沢市内での会合であいさつし、福田康夫氏が21日に総裁選への不出馬を表明するに至った経緯を説明した。

 森氏は20日夜の福田氏との電話で「政治家としてどこかで何らかのメッセージを送るべきだ」と決断を促し、これを受けて21日に福田氏が森氏の個人事務所を訪ね不出馬の意向を伝えた。福田氏は1カ月ほど前から真意を確かめようとする森氏に「自分は一度も出るとは言っていない。だからやめたとも言わない」と繰り返し述べ、議論を重ねてきたという。 (07:02)

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福田氏が「総裁選への意欲をにじませた」といわれるのが、3ヶ月前。
その時、福田氏は外交政策を講演しただけで、「総裁への意欲がある」と勝手に解釈されました。そのときの自分の書いた記事がこれです。

あれから3ヶ月、今日にいたるまで、確かに福田氏は一度も総裁選に出馬するとは言っていませんでした。それなのに、マスコミは福田氏の一挙手一投足を総裁選に結びつけるという離れ業をやってのけました…。

誰が何も言ってない段階で勝手に街頭アンケートをとり、安倍対福田の対立構造を作り出そうとしているように見えました。

学校でも職場でも、「○○さんと××さんは、仲が悪い」とか、「ケンカしている」という噂話はおもしろく、広がりやすいものです。「対立」って外から見ると、楽しいんですよね。だから、ニュースでも、対立構造を作ると、売れるわけです。

福田氏は、本当に総裁選への意欲があったのかもしれません。
それは、誰にもわからないでしょう。

しかし、明確な裏づけもなしに、ストーリーを作り上げる手法には、観客席に座るものとしては気をつけなければならない、絶えず「動かしようのない事実は何か」に注意を払わなければならないと、改めて思いました。

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