Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

April 2006

そこまでするか、と思わせられた、ある日の出来事です。

私は、その当時、お昼は必ず"Quizno's"というサンドイッチのお店に行っていました。そこは、Subwayのように、目の前で好きなサンドイッチを作ってくれます。

サンドイッチが作られるのを待っている間、好きなドリンクを選んだり、並べられている小サイズのポテトチップスをとったりすることができます。

私の前に並んでいた人は、サンドイッチを注文後、しばらく考えた後、何を思ったのか、

目の前に並べてあったポテトチップスの袋を手に取り、


まだお金もはらっていないのに、



袋を開けて食べはじめたのです!



サンドイッチが作り終わると、開いたポテトチップスの袋を差し出し、他のものと一緒に会計を済ませました。

店員の人は、気にも留めない様子で、普通に会計を済ませていました。

考えてみれば、お金はしっかり払っていますし、何も悪いことはしてないですよね…でも、この大きな違和感は、なんなんでしょうか。

もはや珍しい光景だとも思わなくなってきたので、まだ記憶が新鮮なうちに書いておこうと思います。

シカゴで、損保代理店の経営者に会ってから、損害保険の代理店を作る、ということが現実味を帯びてきていました。


私は、今でもよく「なぜ保険の営業マンになったのか」と聞かれることがありますが、自分では、特に「保険の」営業マンになったつもりはありません。

どんな職種でも、人の問題や悩みを解決したり、幸福感や満足感を提供したりすることで、対価としてのお金をもらう、というのがビジネスの真髄です。

したがって、それを提供できるのであれば、どんなビジネスでもいい、というのが私のスタンスです。

私は、コンサルティング会社にいた頃、自分にいつも問いかけていた疑問は、「これが、お客さんのためになっているのだろうか」「エンドユーザーは、自分の提案で、少しでもハッピーになるのだろうか」ということでした。

もし、そうした価値を提供できていなかったとすれば、ひとえに自分の責任であり、原因は私自身の力不足にあります。しかし、コンサルティングという仕事の性質上、アウトプットが、「お客様の企業に提案内容を説明し切ること」であるため、その提案が完全に実行され、収益に貢献する部分まではどうしてもコミットメントが薄く、歯がゆい思いを何度もしたことは否めません。

その会社を卒業してからは、「どんな職種でもいいから、絶対に相手の支払ったお金以上の対価を提供できるようになろう」と心に決めました。

個人金融が、今の自分の仕事になっているのは、たまたまExcelやAccessでお金の計算をすることに慣れていたからであって、自分にはこの職種が合っているとも、合っていないとも思っていません。

私の興味は、そんなことよりも、自分という媒体を通じて、お客さんが他では得られなかった体験を得ることができるか、支払ったお金以上の価値を得ることができたか、ということに尽きます。


そういう前提があって、損害保険の代理店を作る、という段階に入った時、私は他の代理店では提供できず、自分だから提供できることは何だろうか、ということを考えました。


結論は…まだ明確には出ていません。
しかし、何となく思っていることはあり、「お客さんは金融や保険に関して、あまりよくわかっていない」「難しい保険の情報をもっと咀嚼して伝えられる余地はある」「モラルのない金融エージェントが横行している」といった、漠然とした仮説はあります。

要するに、世の中の金融情報に対しては、まだまだ隠れたニーズがあって、必要な情報を掘り起こしてパッケージ化することで、消費者に新しい価値を生むことができるのではないかと思ったのです。

そういった情報を発信していくことで、企業として収益を上げる部分は保険であっても、実は教育の要素があったり、メディアとしての役割を負うことができたりすると思うのです。

GTDマスターへの道です。

ずいぶん前に、タスクリストのつけ方について書きましたが、書きかけなので、追加したいと思います。

前回は、

- 車庫を片付ける

と、漠然と考えていたタスクは、実は、

- 床のチリをなくす
- バラバラに散らばっている工具を、一箇所にまとめる

であることが判明しました。
要点は、タスクの最終形を考え、ブレークダウンする、ということです。


さて、タスクを定義した後に決めるのが、「次のアクション」です。

David Allen氏は、著書の中で、この時点で、"physical, visible action"を決めろと言っています。"physical, visible action"とは、直訳すると、

「物理的な、目に見える作業」

ということですが、私は、この"action"という言葉を、「動作」という風に訳してはいかがかと思うんです。

「具体的な、目に見える動作」

といった方が、イメージはしやすいのではないかと思います。

たとえば、

- 車のタイヤを交換する

というタスクを考えましょう。
車のタイヤを交換する、というのは簡単なようですが、いくつかの複合的なステップで構成されています。
まず、自分でタイヤのスペアを持っていない場合には、お店で買わなければいけません。お店の場所がわからなければ、まずそれを調べる所から、タスクはスタートするのです。

もし、この人がよく使っている修理工場があって、そこでタイヤを買い、交換してもらうとしましょう。

そうすると、上記のタスクは、

- 修理工場が開いているかどうか電話で確認する

その上で、

- 開いていれば、修理工場へドライブし、タイヤを交換してもらう。
- 開いていなければ、開いている日にタイヤを交換する予定を入れておく

などという風に、分解することができます。
そして、次の「具体的な、目に見える動作」とは、

- 住所録を引っ張り出して、修理工場の電話番号をチェックし、電話をかける

ということであり、タスクリストに載せるのは、この一文でなければなりません。


決して、タスクリストに「タイヤの交換」と書いてはいけないのです。

なぜなら、「タイヤの交換」というタスクを見た時に、何をやらなくてはいけないのか明確でないと、そこで、改めてそのタスクが何かを考え、「やるかどうかの判断」をしてしまいます。

そうすると、そこに余計な思考が新たに生じ、実際にそのタスクをやるのが面倒になったり、後に延ばしたりする、ということが発生するのです。

タスクリストを見ながら、作業・動作をこなしている最中は、いちいちそのタスクが何かを考えているヒマはなく、何も考えなくてもすぐに物事にとりかかれる状態に自分を持っていかなければ、最大の効率化は図れません。

そうでなければ、タスクリストが役割を果たしているとは言えないのです。

「好きだったら長時間やっていて当たり前」

私がこう思うきっかけになった理由は、ある雑誌を見た時のことでした。

ある雑誌で、自分と同じ会社に働いている人がインタビューに答えていたのですが、会社での仕事が充実している、ハードだが達成感がある、楽しいなどと応えているのに、

「週末は息抜きしたい」
「日曜の午後には憂鬱になりますが」

などと、答えていたのです。

そのときの、私が感じた違和感と言うのは、

「好きでこの会社に入社して、仕事に充実感を見出しているのに、なんで週末休んだり、楽しみにしているのだろう」

ということでした。

もし、おもしろいことに打ち込んでいるのであれば、わき目もふらず、やり続けるのではないでしょうか?
そもそも「週末」というのは、他人が勝手に設定した休息日であって、自分がわざわざそれに合わせて休む必要はないわけです。自分が楽しいと思っているのであれば、週末だって関係なくそれを行うのが自然の姿だと思うのです。

私は、自分自身一つのことにのめりこんだ体験があったので、この違和感がわきあがってくるのを、どうしても否定できませんでした。
そして、同時に週末を楽しみにしている自分自身が、

「仕事を楽しんでいないのではないか。完全に好きだとはいえないんじゃないか」

と思っていることについても、うすうす気づいていました。

もちろん「楽しい」ということが全てではありませんが、「この山を越えれば、何かが見える」という希望を持てば、ワクワク感だけを胸に、休みなしで一生懸命山を登るものだと思うのです。そこには、何時間働いた、という指標さえ意味のないような気がします。

賛否両論はあると思います。
長時間労働は、倫理観や法律を巻き込む重大な議論です。

しかし、もし自分の人生を最高に充実させたいと思う人は、自分が進んで長時間労働しても絶対に後悔しないような、もしくは自然に、他の人にやめろと言われても長時間労働してしまうような仕事を選んだ方がいいと思います。

そう思えていないということは、その仕事が、おそらく自分にとって最高の仕事じゃないということだと思うのです。

ほどなくして、私自身も会社に入社し、長時間労働を行うハメになりました。

もっと英語や、経営についての勉強を自分でしたいと思っていた私にとって、圧倒的なタスク量をプロジェクトの中で与えられると、それだけで途方に暮れていました。

会社の中では、公然と「長時間労働しろ」と言っている人がいました。
一方、それに対抗する勢力として、「できる人は、効率的に仕事をこなし、早めに仕事を切り上げて帰る」という人たちがいました。
会社は株式公開をしていたため、就業規則が厳しくなり、社内では後者の意見がより経営陣から発せられるようになりました。

アメリカ本社の経営陣からはeメールが寄せられ、「日本人は働きすぎだ。早めに帰って家族との時間を楽しみなさい」といったようなことを指示されるようになりました。

私自身も、そうした考え方に納得し、支持していました。



しかし、皮肉なことに、長時間労働を否定している自分が、だんだんと長時間労働のメリットも見出せるようになっていったのです。
まず、その長時間労働のメリットというのは、スキルの習得が格段に早くなるということです。

仕事は、効率も大事ですが、はじめは何もできないため、量をこなす覚悟で行わなければ、何事も進みません。
しかし、量をこなしていくと、必然的に、ある仕事での最適なやり方を、自然と身につけていくようになるのです。

私が「この分野は、人よりも得意かもしれない」と思えた分野に関しては、全て作業量が積み重なったからこそ、得意になったのであって、決して効率的なやり方を初めから学習したからではないから、というのを体感していました。

そしてもう一つ、私の中で明らかになっていったのは、「好きなんだったら、ずっとやっていて当たり前」という当然の事実でした。

長時間働くことがいいのか悪いのか。
長い間、迷っていたテーマの一つでした。

今では、「好きなら働いていて当たり前」というのが、明らかな答えだと思っています。

大学を卒業して、新卒で会社に入社する前、私はインテリジェンスという会社の面接を受けていました。残念ながら、インテリジェンスは、5次面接で落とされてしまったのですが、その時、当時まだ社員が数名の関連会社「サイバーエージェント」という会社があることを知りました。

当時、サイバーエージェントは、まだ創業1,2年目です。
当時のウェブサイトは、まだ黒っぽい、何だか怪しげな雰囲気が漂っている会社でした。
そのサイトで、今では有名人になりましたが、社長の藤田晋氏が、日記のようなものを書いていました。

彼の著書「渋谷ではたらく社長の告白」でも書いていますが、その日記の中で、彼とそのパートナーが、一週間に110時間働くことをまず最初に決めたと言うのです。

一週間に100時間ということは、平均すると一日15時間以上です。

正直言いますと、当時の私は、この言葉に、非常に大きな違和感と、嫌悪感を覚えました。

「そんなに働くことに意味があるのか」
「長時間働く文化ができてしまったら、一緒に働く人に、法定以上の労働をさせるような無言のプレッシャーをかけてしまうのでは」

などということを考えていたのです。



フルキャストの社長・平野岳史氏の本・満天の星を読みました。

本を読みながら、大学時代にフルキャストを利用して3日ほど働いたのを思い出しました。

私が利用したのは、1997年のことだったのですが、大学のemailアドレスにフルキャストの仕事案内が勝手に送られてきたのがきっかけです。
今だったら、スパムとしてみなされるのでしょうが、まだemailが新鮮なその頃には、そんな宣伝メールでも、受け取るのがうれしかったような気がします。

フルキャストでわりあてられた作業は、誰にでもできるような単純な作業です。
鮮明に覚えているのは、建築中の老人ホームで、地下室にもぐって、ポンプで水を外に汲みだすというもの。冬の寒い中、泥まみれになりながら、「オレは、何をやってるんだろう」などと考えた記憶があります。もちろん、今となってはいい思い出ですが。

仕事が終わった後は、仕事を完了したことを示す紙を、秋葉原の本社まで持って行き、現金に換えてもらいました。

その時、中に入ると、非常に熱気にあふれていて、社員の方の元気が非常によかったのが印象的でした。

もう東証一部上場の企業なんですね。

使われていない優良なリソースを、誰もやりたがらない軽作業にアサインするという、社会的に意義のある事業です。
世の中にくすぶっている「価値」を求めている場所に流してあげるのが、ビジネスの真髄だと思うのですが、まさにそれを実践している会社です。

今後もぜひ伸びて行って欲しい企業です。

「たくさん聞いてたくさんしゃべっていれば英語は必ず上達する」

こんなことを言う人がいます。

私もある程度は同意しますが、もし英語をネイティブレベル、「ペラペラレベル」にまで持って行こうという人は、これだけでは不十分です。

確かに、子供は大量のインプットを入れて、それを出すことで言語学習を加速化させます。大人も、同じようにインプットをすれば当然言語を身につけることは可能なのですが、環境的に子供とは決定的に違う点があります。

それは、「大人は、大人に注意しない」ということです。

ある程度話せるようになってくると、何がおきてくるかというと、英会話学校で、先生が自分の間違いを指摘しなくなります。ある程度話せるようになっているからです。意味が通じるから、先生の側から助言する必要が一切ないわけです。

もちろん、海外に出て、外国人と話をしても、向こうは特に注意などしません。

これが、子供だったら、言葉遣いを間違えた時に、同級生に冷やかされたり、親や先生に矯正されたりします。もちろん、学校に行っていますから、作文の授業もあるでしょう。

子供は、このような「検証と修正」のプロセスを行っているので、正しく話すことを身につけていくわけですが、大人は、ほとんどこのようなことをしません。

大人も、聞いたり話したりする習慣が身についても、基本に戻って正しい言い方を「学習」する人は極めて少ないのではないのでしょうか。

受験勉強で文法をしっかり勉強した人は、完了形の使い方など、自分で「間違った」とわかったら自分で修正できますが、そもそも勉強していない人は、簡単な原理なのに、いつまで経っても適切にhaveやhadなどを使うことができないのです。

たまには問題集を解いてみたり、書いた文章を添削してもらったり、1対1のレッスンで、先生にわざと悪役になってもらったりという努力を意識的にしなければ、正しい英語が身につくことは一生ないと思うんです。

これは、自戒の意味を込めて書いてます。

以前、石を一人で積み上げる人の話をブログに書いたような気がします。

その時の趣旨は、「他人から賞賛や評価を得られなくとも、一人で黙々と何かに打ち込み、人生の喜びを得ている人がいる」というつもりで書きました。

私がコンサルティング会社にいた頃出会った社長で、表舞台に一切立たずに、ストイックにコスト削減に打ち込んでいる人がいたのですが、彼の生き様に衝撃を受けたのです。

そして最近、ビジョナリーカンパニー2という本を読んだのですが、特筆すべきことに、良好(Good)にとどまらずに、偉大(Great)に飛躍する企業の条件として、そのような地味な経営者を擁していることだ、ということが書かれてありました。

偉大な企業を作り上げた人と言うのは、意外にも脚光を浴びず、厳しい現実を見つめながら、個人的な欲望を偉大な企業を作るための動機として昇華している、ということだそうです。

逆に、スーパースターのような経営者は、その経営者が在任している期間は素晴らしい業績を残すが、その人物が抜けた後は、そのようなパフォーマンスを残すことができず、良好(Good)にとどまってしまう、ということ。

その言葉に、大変感銘を受けたのでした。


こういうものを読むと、やはり自分が本物だと感じたことは、間違っていなかったんじゃないかと、うれしくなります。

私は、MP3プレーヤーを、1998年頃から、持っていました。
当時は、まだMD全盛の時代でしたよね。

何も、私が先見性があった、ということをいいたいわけではないのですが、MP3プレーヤーをもっている人は、珍しいものが好きな、どちらかというとオタクで、非常に少なかったのです。

私は、とにかくそのコンパクトさと、音が跳ばない、という機能に衝撃を受け、パソコンから音楽を落としては、それをいつも身につけて音楽を聴いていました。ジョギングをしても音が跳ばないのは、非常にショッキングな体験でした。

今から8年前のことですが、当時のプレーヤーでも、64MB入るほどの容量はあり、1時間のCD分くらいはたっぷり聞けました。



さて、その4年後くらいでしょうか、iPodというプレーヤーがAppleから発売されました。

技術的なことにしか目が向かなかった私には、それまでのMP3プレーヤーとの違いは、記憶方式が「フラッシュメモリ」か「ハードディスク」かの違いだけで、登場時はとりわけ目新しいものだとは思っていませんでした。

それが、洗練されたデザインにより一気にブレイクしたわけです。
このiPodによって、MP3プレーヤーの存在を知った人がいると、私はついつい「MP3プレーヤーは、昔からあったんだよ」などと言いたくなってしまいます。

しかし、ブームというのは、おそろしいもので、iPodはほとんどの人にとって常識となっています。

それまでのMP3プレーヤーは、商品のアイデアはほとんど同じなのに、デザインとプロモーションという点で圧倒的な差をつけ、メジャーな商品にのし上がったのでしょう。

現在私もiPodを持っていますが、その操作性とデザインには、未だに心酔してしまいます。しかし、一番衝撃だったのが、最初に箱を開けたとき。
ムダな包装紙が入っておらず、かっこいい箱の中にまばゆく光るものが埋められているのです。それはまさに、「真実の瞬間」でした。


ビジネスというのは、モノだけじゃないんだな、と思わされます。

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