Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

March 2006


送られてきたフォームに、車詐欺の一部始終について、どんなことが起きたか、記入を行いました。

私は、車を買った時の状況、そのときのディーラーの対応や、どのようにして事故車であるかが判明したのかがわかるように、詳細な説明を行いました。その上で、デジカメで撮影した写真を何枚も添付し、参照できるようにしました。

そのフォームをAutocapへ送り返し、返事を待つことにしました。
1週間待ちましたが、返事が来ないので、ピリピリしていた私は、Autocapへ電話をしました。
Autocapは、さらにディーラーに圧力をかけてくれることを約束しました。


そして、待つこと2週間ほど。ディーラーのマネージャーから、電話がかかってきたのです。

マネージャーは私に、待たせたことを謝り、私に車をディーラーまで持ってくるように指示しました。

数日後、私は車をディーラーまで走らせました。
もはや何者も信用できなかった私は、服の中にデジタル音声レコーダーをしのばせて、その場所に向かいました。

会話をすべて録音することで、後で話がこじれた時に役立つのではないかと思ったのです。

ディーラーに到着すると、マネージャーは、フレンドリーに私を迎えました。
しかし、忙しいのかわかりませんが、私を椅子に座らせたまま、30分以上待たせました。

しばらくすると、マネージャーは、私を呼んで、車を一緒に見ようといいました。
私は、車の事故履歴について、ウソの情報を与えられたこと、たとえ事故履歴が間違っていたとしても、事故車であることが、プロであれば十分にわかっていたはずであることを、車を見せながら一生懸命説明しました。

マネージャーも、怪訝そうな顔をしていましたが、明らかな事故車であることは、彼も否定できなかったのでしょう。すぐに、購入金額とほぼ同額の返金を約束してきたのです。

私は、それがあまりに好条件だったために、すぐに合意をしてしまいましたが、もっと交渉の余地はあったかもしれません。

おそらく、Autocapに圧力をかけられたことが、相当のプレッシャーになっていたとも考えられます。
Autocapは、NY州で運営されている消費者保護団体なので、逆らうのは相当難しいと思われるのです。

私は、念のために、私に○○ドル渡す、という誓約書を書いてもらいました。
マネージャーは、チェックをすぐに送ると言っていましたが、すぐに送ってはきませんでした。

結局約一週間後くらいにチェックを受け取りましたが、換金した時には、さすがにホッとしたのを覚えています。


情報の解釈をする者が、「実名顔出し」であれば、その解釈が、どんな人格や思想に立脚しているかがわかりやすくなります。

アメリカのニュース専門番組であるCNNは、これを、ある程度実現しています。
アンカーの名前を冠したニュース番組がいくつもあるのです。
たとえば、以下のようなものです。

Lou Dobbs Tonight
Paula Zahn NOW
Larry King Live
Andersen Coopers 360

こういったニュース番組では、アンカー自身が、情報の把握者・解釈者の両役をこなし、ニュースを加工して届けています。
もちろん、裏方で、彼らの言うことに対するプロデューサーやスタッフの指示もあるでしょう。また、CNNという会社で運営している以上、タブーや報道方針があるのは間違いないと思います。

しかし、彼らは自分の名前を出すことで、「アカウンタビリティ」を負っています。つまり、変なことを言ったら、彼ら自身が批判を受け、彼ら自身が説明しなければならないしくみになっているのです。

もちろん、日本にも、アンカー名のニュース番組がいくつかありますが、どちらかというと、大衆の空気を読み取って代弁する「風刺劇」としての役割が強いように思うのです。

一日の中で、上記の番組を立て続けに見ると、ほぼ同じようなニュースをとりあげているのですが、アンカーによって、ものの捉え方が違うことに気づきます。

また、アンカーは、ある問題について、二人の、全く見解の異なるエキスパートを呼んで、議論させることがあります。事実に対して異なる解釈をぶつけることで、議論に深みを持たせようとするのです(ほとんどの議論がもの別れに終わりますが)。

主要アンカーの一人であるLou Dobbsという人は、この前、こんなことを言っていました。

「私はアメリカには他の国のイベントに由来する休日はいらないと思う。たとえば、セント・パトリックの日は、アイルランドの祝日じゃないか。」

この発言は、多少の物議をかもしましたが、彼自身は批判に動じる風もありません。

「アメリカは、民族間の違いじゃなくて、アメリカ人としての共通点を祝うべきだ」

と、自身の主張を、さらにサポートすらしていました。
こうした意見は、一つの意見として、個人個人が良し悪しを判断すべきなのです。

「全体的な空気が、その意見を認めないので、その意見は認めない」という現象が、日本では頻繁に起きます。こうしたことが起きにくいのが、多民族国家であるアメリカの特徴です。こうした情報解釈の「個人主義」は、日本も、ある程度導入した方がいいのではないかとずっと思っていました。

しかし、前にも書いたかもしれませんが、ブログによって、この情報解釈個人主義時代は、これから一気に加速すると思います。

個人から発したさまざまな解釈が、ニュースに対して行われ、個人は、テレビでは得られなかった解釈の海に自を投じ、出てきた時には、確固たる自分の意見と意思を持つことができるのではないか、そう考えると、希望が大いにわいてきますよね。


ハタから見ているとばかげているように見えても、当の本人が真剣に打ち込んでいるのを見ていると、笑う気にもならず、逆に圧倒されるという経験がよくあると思います。

以前、"Brokeback Mountain"という映画を見たのですが、私が感じたのは、そんなことでした。
これは、同性愛者の映画です。

ゲイをテーマにしたドラマで思い出すのが、"Will & Grace"というコメディです。
でも、これは現代のニューヨークが舞台で、ゲイといっても、そこまで社会的な末端者というイメージではありません。

しかし、"Brokeback Mountain"は、1960年代のアメリカ南部が物語の舞台です。
そこで、カウボーイが愛し合っているのですから、私にはどんな映画か想像もつきませんでした。

そこで、映画を見てみたわけですが、確かに予告どおり、家族を持つ二人の男の不倫が描かれています。しかし、秀逸なのは、その二人の男が、その関係に対して、極めて真剣であることです。

私は、映画を見る前、「ゲイの話だから、かなり笑える場面があるに違いない」などと、不謹慎な期待をしていました。映画を見た後は、そんなことを思っていた自分が恥ずかしく、「ゲイだからといって、何が悪いんだ」と考えるようになったのです。

仲のいい男の友人と、どこかのお店に行くと、誤解されたくない思いと、ちょっとしたジョーク感覚で、店員に「オレたちゲイじゃないですから」などと茶化そうとしていた自分がいました。しかし、本来、ゲイであるかないかというのは、笑いの対象にはなりえないのです。

この映画に対する批判として、「どちらかが女だったら、ただ普通の不倫の物語じゃないか!」などといわれているみたいですが、実は、そこがまさにこの映画のポイントだと思います。
「ごく普通の不倫の物語」であるからこそ、ゲイに対してなんら差別的な見方を許容させない力が、この映画にはあるのです。

そうした力を持たせることができたのは、ひとえに彼らの真剣さを脚本、演出、演技、あらゆる側面で実現したからでしょう。

真剣さは、嘲笑に打ち勝つことができることを、思い知らされました。


会社に入社してから1年と10ヶ月程度でしょうか。
TOEICを受けました。

ここでは、それまでのTOEIC体験と、全く異なることを体験しました。
TOEICを、初めて「簡単」と感じたのです。

リスニングは、普段聞いているCNNやNPRの生の英語に比べれば若干遅いな、と感じました。
ライティングは、感覚的に答えられます。正誤問題は、「なんとなく正しく聞こえるから」といった感覚で選ぶような感じです。

もう、TOEICで使われるような英語は、体に染み付いていて、もはや考える必要がない、というレベルにまで、いつの間にか達していたのです。
こんなことをいうと、「自慢しているんじゃないか」とか、「嫌味だ」と言う人もいるでしょう。

しかし、これは、考えてみると当然のことです。
私はそれまでの間、日常の中に英語を織り込み、すでに生活の一部として確立していたわけです。
だから、TOEICのような、ヒネリのない問題は、容易に、考える必要なく答えられるようになっていたのです。

こうして、このTOEICで、950点に達しました。

TOEIC950までの道は、これで終わりです。
あっけない感じがするかもしれません。

これまで、恐縮にも"TOEIC950までの道"などというタイトルで、個人的体験を書かせてもらったわけですが、かなり、まわりくどく、わかりにくかったかもしれません。
また、多くの人が、「ポイントは何だ?」と思われるかもしれません。
どちらかというと、「○○をして、××をしたら、950になったので、あなたもこうすべき」、と書いた方が、受けが良かったかもしれませんし、わかりやすかったかもしれません。でも、これは私だけの事例なんです。だから、なるべく正確に、起きたことを淡々と書きたかったということがあります。

また、真実は、「○○をすれば、900点を超える」などという、そんな安易な世界にはないのではないかと思っています。
実際には、いろいろな勉強法を試した過去があったり、受験のために勉強に腐心した経験があったり、試行錯誤と挫折があったのです。

たまたま、ブレークポイントが、ある勉強法の採用だったからといって、全てをその勉強法に帰して、それが万能であるかのように語るのは、バカげているのではないかと思ったのです。

最近、英語の勉強法について、「○○日であなたも英語が話せる」とか、「一日○分であなたもペラペラに」などとうたい、情報商材などを売っている人がいるみたいですが、ハッキリいって、白々しいと思います。

「あなたも英語が話せるようになる!」なんて…そんなの当たり前ですよ。
子供だってできるんですから。ロケットサイエンスではないのです。
日本以外の国は、第二外国語であるにもかかわらず問題なくしゃべれている人達はゴロゴロいます。必要以上に難しく思う必要はないんです。

唯一守らなければいけないルールは、時間をかけること、その中でインプット、アウトプットをとにかく多く繰り返すこと、これに尽きます。「英語ができない」と言っている人のうち、95%以上は単に時間を使っていない人ですから、安心して、これから時間を増やせば良いと思います。

タイトルで、「TOEIC950までの道」としたのは、950がすごいからというわけではなく、あくまでマイルストーンの一つとして最低限の目標を持ってもらいたかったということと、900点以上はペラペラだという幻想をあえて打ち砕きたかったことによります。前にも書いたことがありますが、本当にペラペラレベルを目指すのであれば、TOEICの満点は9900点のつもりで臨むべきです。

こういった書き方が、人を不愉快にさせているようであれば、お詫びします。
しかし、せっかく勉強するのに、目標が800、900というのはあまりにもったいないと思うのです。
もっと、上に目線を移す人が、たくさんいてもいいのではないかと思います。


TOEIC950をとった私は、「こんなものだったのか」という脱力感を覚えると共に、「まだまだ本物の英語力は身についていない」と思うようになりました。
読む、聞くはある程度できるようになったのですが、話す、書くは全くお手上げ状態だったのです。
そして、人生で最も英語学習にのめりこんだのは、この後のことでした。


たとえば、"Obviously"という言葉があります。

この言葉を辞書でひくと、必ず「明らかに」とか、「当然」といった訳が出てきます。
もちろんこういう言い方もありなのですが、文脈によっては、「やっぱり」とか、「どうせ」といったニュアンスを含んだ使われ方も多いのです。

He obviously had an idea about it.

これを、

彼は、「明らか」にそれについて考えを持っていた。

と訳すよりも、

彼は、「やっぱり」それについて考えを持っていた。

と訳した方が、自然にニュアンスが伝わる場合が多いことに気づいたのです。
だからといって、私が「やっぱり」を辞書に加えろ、と主張しているわけではありません。
「やっぱり」を加えても、Obviouslyを完全に表現するのは、ムリなのです。

本来、Obviouslyという言葉は、Obviouslyという言葉以外の何モノも意味しないので、完璧な訳など存在しません。
何とか、近い言葉は何かを探して、日本語に置き換え、解説しようとすと、途端に思考がしばられてしまいます。英語??日本語の翻訳を行っている限り、自然な英語を使いこなすことは不可能だと思います。

したがって、Obviouslyは、Obviouslyとして覚えなければならないわけですが、たった一回聞いただけでは、その微妙なニュアンスを感覚的に理解することはできません。

理想的には、3回以上、同じような使われ方を聞くことで、自然な形で頭に入っていくことでしょう。

一つのセンテンス、一つの単語でさえ、数回聞かないと、文脈に即したニュアンスを把握できません。
ニュアンスが完全に把握できていない限りは、そのセンテンス・単語がいざという時に口から出てくることはないのです。

辞書に頼るのもいいし、英語系メルマガでいろいろな意味を知るのはいいのですが、できるだけ生のコミュニケーション現場(インプット・アウトプット共に)に身を投じて、状況に応じた語の使い方を大量に浴びることを心がけた方が後々役に立ってきます。



それにしても、よくこんなサービスを考えたものだな、と思います。

Zipcarの創業者は、東南アジアに行って車のシェアリングが日常化している様子を見て、これを米国の都市圏でビジネスにできないかと考えたようです。

マンハッタンを歩いてみると、いたる所に車が止めてあります。しかし、それらの車は、オーナーに使われていない間は、そこに置かれて道端のスペースをとっているだけなのです。もし金を払ってでも借りたい、という人がいれば、その車のオーナーの中には、貸す人も出てくるのではないでしょうか?

Webサイトを見た限りではZipcarが、現在事業としてどのような収益モデルになっているのかがわかりません。

しかし、こういった、使用されていないリソースを有効活用して、今まで満たされていなかった人々のニーズ(「1、2時間単位で車を借りたい」といったニーズ)を満たそうというビジネスのしくみは、社会的意義が極めて大きいのではないかと思いました。

事業として、赤字なのか黒字なのか、よくわかりませんし、今は見守るだけですが、私はZipcarのファンになったので、密かに応援をしている次第です。


Zipcarというサービスがあります。

レンタカーの一種なのですが、レンタカーとはちょっと違います。

一言で言うと、「会員制の車シェアリング」、です。
レンタカーのような支店があるわけではなく、Zipcarは、そこら辺の駐車場にバラバラに止められています。

どういう仕組みかというと、まず、Zipcarとして登録されている車のうち、Web上で今空いている車、もしくは予約したい車を探します。乗りたい車が、ほしい時間帯に空いていたら、そのままWeb上で予約の申し込みをします。

あらかじめ予約した時間になったら、車が止めてある場所に行き、会員証として持っている”Zipcard”を、フロントガラスの内側にある機械に当てます。そうすると、車が開き、乗ることができるのです。カギは内側に入っています。

ガソリンは、既にレンタル料に織り込まれています。専用のガソリンカードをクレジットカード代わりに使えば、ガソリンスタンドで支払いが済むしくみになっています。言い換えると、何マイル走っても、レンタル料以上に、ガソリンのために余計なお金を払うことはありません。

基本コンセプトは、「乗りたいときに、乗りたいだけ乗る」ということ。
課金は、1時間単位なので、たとえば、「ちょっと遠くのスーパーに買い物に行きたい」という場合には、大変便利です。

これで、一年間の会費が$50、デポジットが$100。これに、使用するたびにレンタル料が課されます。
マンハッタンだと、普通のセダンで、大体1時間あたりのレンタル料が$10。普通のレンタカー会社だと、1日単位で、$100あまりを払わなければならないため、細かく使いたい場合には非常にリーズナブルなのです。

先週、一緒に引越しをする友人とレンタカーを借りようということになったのですが、このZipcarを使い、HondaのElementという車を借りました。日本にある車で言うと、日産のキューブのような車です(日本にもElementがあるのかもしれませんが)。一日の使用料は、レンタル料、ガソリン、保険、税金全て込みで$120でした。全て含めて考えると、マンハッタンでは、かなり安い金額です。

車は新車で、とてもきれいだったし、音響などの性能がよく、引越しの車としてだけでなく、十分に楽しめました。

これだったら、1日の中で、違う車も楽しめます。
今度、何に乗ろうか、今から画策中です。


私が最初にニュースを、全体像で理解することができたのは、ティモシー・マクベイ氏の処刑に関する一連のニュースが流れていた時でした。

ティモシー・マクベイ氏というのは、95年オクラホマ州の連邦政府ビル爆破事件の犯人です。
死刑が確定していたのですが、それを1ヶ月前くらいから、報道していました。

このような死刑が行われるたびに、アメリカでは死刑反対の市民運動が起きたりします。
したがって、そういったニュースが、彼の死刑の前にずっと報道されていたのです。

私は、これらのニュースを毎日のように聞いて、だんだん彼の置かれた状況がわかるようになっていました。そして、実際に死刑が執行されるまでの間、Webサイトや新聞などで情報を仕入れ、関心を深めていました。

関心が深まると、毎日そのニュースが気になって仕方なくなります。
そうなると、もはや英語を勉強しているという感覚がなくなるのです。

日記は、だんだんそのニュースのことを書くようになります。
また、英会話学校に行き、そのことについて話すようになります。

こうなると、英語力の伸びは一層早くなります。
これと似たようなことを、いろいろなニュースで実現すれば、良いのです。

9/11のテロは、この数ヶ月後に起きました。
その時、テレビは押入れにしまっていたので、インターネットしか情報源がありませんでした。

テロ直後は、主要メディアのサイトにつながりにくかったのを覚えています。
翌日以降は、数ヶ月テロの報道が中心で、その時期にたくさんの生の声を、現地から聞けたのは良かったと思いました。

こんな形で、日常的に相当量の英語を接触時間を保っていました。


TOEICを再び受けたのは、その矢先のことでした。


社員1年目??2年目にかけては、飛躍的に英語への接触時間が伸びました。
この頃は、とにかくインプットとアウトプットのサイクルが大量に行われていました。
日常的に、以下のようなことを行っていました

聞く: DVDで映画を繰り返し見て、暇な時はインターネットのラジオ(NPR、CNN)を流していました、またCNNなどのサイトで動画や音声ニュースを聞いていました
読む: "Who Moved My Cheese?", "Rich Dad, Poor Dad"などの本を読んでいました、またHerald Tribuneという新聞を読んでいました
話す: AEONやCICOMといったスクールで英語を話していました
書く: 手帳を、全て英語に切り替え、簡単な日記を英語で書くようにしました、またAEONの先生に、作文を見てもらっていました

このようなインプット、アウトプットを増やしていった結果、伸びた英語力の土台を利用して、ますます多くのインプット・アウトプットができるようになっていったのです。

当初は、決意をゆるく持ち、「日本語だけの生活」をあきらめたわけですが、
このサイクルに入ると、だんだん「英語のない生活」が、単純にありえなくなってきます。

これを数ヶ月続け、最初は雑音のかたまりだった、ラジオの声が、意味をもった言葉の集合体に聞こえる、ということを時おり体験するようになりました。

ラジオで聞いたことを新聞で確認したり、Webサイトで見たりすると、同じニュースに対する接触頻度が増え、同じ事象に対する説明を何度も聞くことになります。そうすると、そのニュースに対しては、"耳"ができてきます。次にそのニュースの進展を聞くときには、その内容を理解する土台ができあがっていますから、ますますそのニュースを理解することができるようになります。

これを続けていくと、今度は、そのニュースに関連する単語やセンテンスが、勝手に口から出てくるようになります。同じニュースを繰り返し聞いていて、頭の中でできあがった文章を、確かさをもって話せるようになるのです。

よく、一日○分英語教室、などのようなメールマガジンがあります。
「こういう言い方をするんだ」と思えること自体はいいのですが、たった一回のインプットしか得られないんですね。たった一回のインプットを、自信を持ってアウトプットに変えることができるはずがないのです。

だから、ああいったもので、真剣に勉強している気になるのは間違いです。

少なくとも、同じような意味を持つセンテンスを、3回以上聞かないと、微妙なニュアンスを頭にインプットできないものです。
辞書的な英語でなく、天然の英語のインプットを、大量に行うしか道はないのです。


情報に解釈を加えることによって、空気ができます。
そして、日本は、加速循環装置(大手情報媒体)のおかげで、物事に対して一つの空気=一つの解釈に染まりやすいのです。

これを前提にして、最初の記事に戻りましょう。

なぜ、この解釈ばかりの記事がそんなに危険なのか。
それは、この記事が匿名だからです。

匿名ということは、無責任、ということです。

ある特定の「解釈」を流し、日本全体の空気を変えるほどの力を持つ人物が、実際にごく少数のテレビ局の中、新聞社の中に、確かに、実在するはずなのです。
それなのに、その人物が、どんな思想にもとづいて、その解釈をしたかについて、視聴者は知らない。

判断力が十分に染まっていない子供だったら、「テレビで言っているから」「新聞に書いてあるから」、と全ての情報を鵜呑みにするかもしれません。
判断力があるはずの大人でも、「この前○○の番組で、XXと言ってたから、本当だよ」などと、テレビが言っていることが正しいことを前提に話す人がいます。

情報媒体の裏に潜む、説明責任を持たない、何人かの人間による勝手な情報解釈が、加速循環装置に流されているのです。

そして、その解釈は空気となって、日本を支配します。

唯一確かなのは、情報媒体は、広告収益型のビジネスであるということ。
それ以外に、お金をもらう方法がないのです。


アメリカの報道番組を見ていて違うなぁと思うのは、一つの空気が、支配的になりにくいということと、情報の解釈が、多くの場合「実名顔出し」で行われていることです。

そもそも、民族や宗教が混在する国であるため、物事に対する解釈がゴチャゴチャです。
そのため、一つの空気が支配的になることは、対テロ戦争のように、外敵が一致した時以外には、滅多にありません。
また、そもそも犯罪の多い、この土地に住む人は、他の人間の言うことを鵜呑みにする、ということが日本よりも少ないでしょう。

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