Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

February 2006

成功者というのは、「表舞台」に出て、目立って、いろんな雑誌からインタビューされて、本を書いて、テレビに出て、お金をたくさん稼いで、名声を得ている、というのが私のイメージでした。

しかし、そんな私の価値観が根底からまっさかさまに覆された、ある「出会い」がありました。

コンサルティング会社に勤めていたとき、いろいろな人に出会いましたが、最も衝撃を受けた人物がいます。

ある物流企業の社長です。
なんとこの企業、Googleで検索しても、一件も検索結果が出てきません。それほど、極めてマイナーな物流企業なのです。正確には、完全に独立した物流企業ではなくて、ある有名メーカーの物流子会社なのですが、この会社自体は、物流業界雑誌にもほとんど登場しないほどの無名企業です。

それは、あるプロジェクトで、物流企業の事例調査をしている時でした。
プロジェクトのアドバイザーが、「○○物流を見に行くといいよ」とアドバイスをくれました。
このアドバイザー、きわめて現場をよく知っている優秀なコンサルタントだったので、私は非常にこの企業を見に行くことを楽しみにしていました。

プロジェクトのマネージャーと一緒に、新幹線で大阪の近くへ降り立ち、その企業を訪問しました。
事務所の中に入ると、十人ほどの社員は総立ちし、挨拶をしてくれました。
社長室に通されて、私は衝撃を受けました。紙がないのです。

だだっ広い机の上には、パソコンとプロジェクタがあるだけ。

作業服を着た社長は、ニコニコしながら、「紙はムダになるからね。ウチはペーパーレスを徹底してるんだ」と説明をして下さいました。

プロジェクタに映し出されたパソコンの中身を見ると、徹底されたカテゴリ分類とフォルダ管理。
ファイルの名称のつけ方も、統一化がとにかく徹底されています。

彼が、物流の責任者になってからの、業績の経緯を、チャートを使って説明してくれました。

チャート等を見ると、ものすごい業績の回復ぶりです。彼は、まさに革新的な業務のやり方を、10年以上もの歳月をかけて、会社にもたらしたようです。それは、彼の自信に満ちた語り口からも、資料の緻密さや、事務所の管理方針からも感じ取れます。何度か企業訪問に行ったことがありましたが、ここまでオペレーションの管理が徹底されている企業は正直みたことがありませんでした。

どんな風にリストラを行ったか、どんな風にオペレーション改善を行ったかを、一通り説明した後、その社長はボソっと言いました。

「このコスト削減は、どうしても前からやりたかったんだよね。で、もう自分のやりたいことは終わったから、私の上司に辞表を提出した。もうそろそろ私は引退しますよ」

これを聞いて、私は衝撃を受けて完全に動けなくなりました。理解できない…。

この人は、もっと栄光を作ろうとは思わないのか?
ここまでの業績を残した人なら、もっと出世できるはずだ。表舞台に立ってもいいはずだ。この会社で運悪く上のポストがなくても、メディアに出て、成果を披露すれば、もっと個人的に儲かるような話も舞い込んでくるだろうし、本も書けるはずだ。
まだお若いようだし、物流のコンサルタントにでもなれば、それだけでも今より収入が上がるのでは?

なぜ、この人はこれで満足なのだ?

「いやー、ずっとやりたいと思ってたんだよね、この改革だけはね」

それだけが行動の動機?

ハッとして思い出したのが、「石を一人で積み立てる人」の話です。
この人は、この仕事に、絶対性を見たんじゃないかと思うのです。表舞台に立って名声を浴びるとか、雑誌でインタビューを受けるとか、そんなことで成功の尺度を測っていた自分は大事な点を見逃していたのです。

彼は、この物流会社のV字回復というミッションを達成することに全力をささげ、そのことに絶対的な満足感を感じていたのではないかと、そう思うのです。

「数年前に、コレステロール値が高いって医者に言われてね」

社長は、ある紙を財布から取り出しました。
その紙には、グラフが描かれていました。会社の業績とは違う「右肩下がり」のグラフです。

「運動不足って言われたから、その日から、毎日雨の日も含めて、毎日事務所まで歩いて通うことにしたんだ。お酒もやめてね。で、ここまで減らしたんだよ」

それは彼のコレステロール値の推移だったのです。
その満足げな、穏やかな表情と、そのグラフを見たとき、私は涙があふれてくるのが、抑えきれないような気分になりました。

誰にも見られず、誰にも知られず、それでも強固な意志を持って物事を完遂することができる、世の中にはそんな人がいるのです。
それを自分自身の虚栄や名声のためではなく、自分の目標を、ただただ全力で達成し、満足と達成感を得るために…。

名もない企業の、地味で無名の社長。しかし、彼は誇りをもって仕事を全うし、結果を出し、今は「し残したことはない」と断言されていました。

こんな仕事ができれば、自分もそれだけで幸福になれるかもしれない。
案外、自己を律して、自己に克つこと、それだけが、人生における勝利なのかもしれない。

そんなことを、深く思い知らされた出会いなのでした。

たとえば、私がある一流企業に就職(もしくは転職)したいと思ったとしましょう。

その時、

自分に関係のある全ての人間が、その事実を知らなくとも、その企業に勤めたいと思うだろうか?その仕事をしたいと思うだろうか?
自分は、寸分であっても、見栄でその企業を選んでいるのではないだろうか?
「その会社に入れたこと」「その会社のメンバーであること」を自慢したいから、入るんじゃないのか?
本当に、そこで自分が心から満足を得られることが実現できるのか?

もし、見栄で行動を決めていたとしたら、その目的は、「周囲に認められること」ですよね。
でも、周囲というものは、絶対的な存在ではありません。価値観が変われば、自分の行動に対する評価も変わる。これは、どこまで行っても、相対的な満足感なんですね。

BMWを買って、自慢していたら、別の友達がポルシェを買った。
そんなことで、自分の満足感が減ってしまうようなら、それは見栄にもとづいた、間違った判断だったと言うべきです。満たされぬことを知りながら、嫉妬心に燃え、さらに高い車を買おうとすれば、永久に空腹感を感じる、極めて不幸な人生だと言わざるを得ないでしょう。

私は、見栄をはっちゃいけないとは思いません。強烈な動機やエネルギーを生み出すからです。

しかし、見栄以外に、「絶対的な満足感」に対する強い動機というものがなくてはいけないと思うんです。

お客さんが感謝をしてくれた瞬間、お客さんが商品を手にして笑顔を見せてくれた瞬間、あるいは、苦しい仕事をやりぬき、目標を達成した瞬間。スポーツだったら、勝ったときの瞬間。
こんな時、なんともいえぬ、幸せな気分になりますよね。

この満足感は絶対的なものです。
他人が何をしても、どうこう言っても、その価値ある一瞬だけは、奪われるものではありません。

この絶対的な満足感こそ、あらゆる活動において、重視すべきものだと思うんです。
企業の経営のうえでは、この満足感を従業員に提供できるかどうかが、長期において繁栄するために大事なことだと思います。

私は、名もない会社を立ち上げ、ほとんどの人が知らないようなビジネスを運営していますが、それでもお客さんに笑顔を提供することができています。この会社が繁栄して、有名になったらいいなという見栄は当然あります。しかし、それよりも、今はお客さんに価値を提供できているし、笑顔を作りだすことができています。

人によっては私のやっていることをけなしたり、バカにしたりする人もいるかもしれません。
しかし、私が作り出すことのできたこの満足感は、誰にも奪うことができないんです。だから、私は自信をもって、この事業を行うことができます。

この絶対的な満足感を、もっと生み出すことができれば、私は、無名のままでもずっと自分の活動に誇りを持つことができるんじゃないかと、そう思っています。

私がこう考えるにいたったのは、「ある人」との出会いがあったのも影響しているのですが、次に書こうと思います。

大学のゼミでは、臨床心理学という分野を専攻していました。
きっかけは、20歳の誕生日に、ユングの書いた「人間と象徴」(河合隼雄監訳)という本を読み、とても大きな衝撃を受けたためです。

幸運にも、私の通っていた大学で心理学を教えているゼミがあったため、迷わずこのゼミに行くことを決定しました。
ここでは、2人の精神科医がゼミの教授をしていました。
ある日のゼミで、教授の一人がゼミのメンバーにこう独り言をつぶやきました。

「石を積み立てて世界記録を作ったって人がいるけど、彼は、周りの人に見てもらいたいから、石を積み立てたんだろうなぁ」

それに、ゼミのメンバーが反論します。

「石を積み立てることは、それだけで、満足感とか、達成感とかが、あるんじゃないですかねぇ。その人は、誰が見ていなくても、やったと思いますよ」

「そうかなぁ。たとえ一人でやったとしても、結局は誰かに見てもらいたいから、やってたんじゃないかなぁ。他者との関係性なしに、人間はそんな行動を起こすんだろうか」

このやりとりを聞いて、私はハッとしました。
どちらも、一理あるなぁと。

たとえば、自分が何かに打ち込んだり、努力したりしますよね。

これって、本当に誰が見ていなくとも、するだろうか?
友達や家族、好きな人にこの「がんばった」「何かを手に入れた」という事実が知られなくとも、それを行うだろうか?物事に努力するのは、結局誰かに認めて欲しいからじゃないのだろうか?

こんな風に考えるようになったんです。
この考え方は、ものすごく便利なんです。
自分のあらゆる行動の本当の動機はどこにあるのかを知る、強力な質問なんです。

そして、動機の中に、「見栄」といったものが含まれていると、本当に充足した生活はおくれないのではないかと思っています。
なぜなら、自分がコントロールできない、他人の価値観に、自分の行動の価値を委ねているからです。

そういった見栄のために、人は判断を狂わせるし、狂った判断は、人生を不幸に陥れる、ということをいつも考えています。

バレンタインの思い出など、何もありません。
甘い思い出も、苦い思い出も、酸っぱい思い出も、何もない。

今年も、何ももらってませんし、あげてませんし。
しかも、今日15日ですよね、そういえば。今頃思い出してる次第ですから。

まぁ、しかし以下の話はけっこう笑えます。
私がかなり若かった頃の話です。若い、というより小学一年生くらいの時のことです。

そのとき、たまたま私はアメリカに住んでいたんです。バレンタインデーは、当然ながら、行事の一つでした。そこで、学校のクラスで、あるアクティビティを実施したのです。

それは、カードを送る、というものでした。

クラスメイトは、それぞれ、自分の箱を用意します。
その後、クラスの異性全員に、カードを書きます。
カードを、それぞれの人の箱に入れていきます。

そして、意中の異性には、カードに"Be My Valentine"と書いておくのです。

まぁ、今思うと、よくそんなハレンチなことが企画されたもんだなと思いますが。
どうも、この国は、「プロム」とか、モテない人間を落ち込ませる企画が多い。

それはともかく、カードを書いて異性に送り、好きな人には"Be My Valentine"と書くというこのバレンタイン企画。


私が何をやったか。


女子全員に、"Be My Valentine"と書いてしまったのです。

ええ、意味がよくわかってませんでした、はい。すいません。

始めに、髪の毛がもじゃもじゃの女の子が寄ってきて、「ごめん、あなたのことより、○○くんのほうがすきなの」といわれた時には、戦慄が走りました。
お前はなにを勘違いしているんだと。

事態をよく把握できずにいると、数人の女子に囲まれ、「これ、どーいうことよ!」と、罵倒を受けました。
どうやら、意中の人にのみ、"Be My Valentine"と書くらしい。
知らなかったんだよー、と言っても通用するわけもなく。

小学一年の女子を怒らせると怖いものです。
あっという間にうわさが広がります。

今から考えると、「みんな好きなんだよぉ!」と半分意味不明でキレていれば、ちょっとはウケたとは思うのですが、そうしなかったことを密かに後悔してます。

小学一年の私にそんな余裕あるわけないです。


先週末、姉が仕事で、NYに立ち寄りました。

せっかくなので、レンタカーを借りたら、今期最大の大雪が降り出し、1日であっという間にレンタカーは雪の中に埋まってしまいました。しかも観測史上最大級の積雪。

私が住んでいるアパートでは、道端に縦列駐車をするのが通常なので、まずは積もり積もった沿道の雪山から車をださなければいけませんが、とんでもなく雪の量が多い。

待っていてもしょうがないので、とりあえず雪かき作業を開始。
雪かき用の道具を持っていなかったために、洗濯カゴを使って雪をかき出しました。
姉はフライパン(!)とバケツを持って助けてくれました。

道端を通っている人は、奇異の目で見ていましたが、もちろん助けてくれませんし、こちらも期待していません。

全てとは言いませんが、普段、ビジネスで自分のことしか考えないアメリカ人ビジネスマンばかりに会っていると、そもそも助けてくれるなんて、はじめから期待しなくなりますよね。

雪をある程度書き出して、車に乗り、エンジンをかけたら、今度は滑って車が進まない。
どうしようと難儀していたら、アパートから、30代くらいの男性が出てきて、

"Wanna give it a try?" (試してみる?)

と車を押すポーズをして聞いてきたのです。

彼が背後に回り、押してくれたおかげで、私は何とか車を出すことができたのです。

彼は同じアパートの3階に住むスティーブという男性。
姉が名前とアパート番号を聞いたところ、「何もお礼はいらないよ」と言ってくれたそうです。

アメリカには、人の目をまっすぐ見ながら、平気でウソをつき、人をだます人間がたくさんいます。
その一方で、こんな寒い冬の夜に、何の見返りも求めずに、助けてくれる人もいます。

その事実を知っただけでも、少し良い気分になれた、ある夜の出来事でした。

スティーブへのお礼を、現在考え中です。

真の、結果を出すコンサルタントとは何か、ウンウン悩みながら、仕事をしていたのですが、一回だけ、それを垣間見た貴重なプロジェクトに居合わせたことがあります。

そのプロジェクトでは、自社のコンサルタントだけではなく、ある分野の専門アドバイザーが、関わっていました。驚いたことに、その専門アドバイザーの提案は、戦略レベルのあるべき姿を語りながら、一部分においては極めて具体的。その通りに実行すると、本当に効果が上がるシナリオが立てられていたのです。
「本当に効果が上がることがイメージできる提案」というのは多いようで、少ない。だから、私は衝撃を受けたのです。

彼の作った提案書を見たとき、私はそれまでに味わったことのない感覚に襲われ、まさに「震撼」したのです。詳細をここでお伝えできないのが本当に残念です。

彼の提案書と、自分がそれまで書いてきた提案書の違い。
それは、「真実は細部に宿る」ということ。
細部をわかっている人間が作る提案書は、すぐに実行できて、すぐに効果が出ます。

そして、細部を語るためには、現場をわかっていなければならない。

事業が動いて、実際に最後の利益を出すまでには、いろいろなプロセスを踏みます。
そのプロセスは、うまく行っているように見えて、実際には利益が出ていない。

でも、その原因は、ほんの些細な、1つのプロセスの、現場の1動作に隠れていたりします。

ホンモノのコンサルタントは、脳に蓄積された膨大な過去の事例集から、その1動作を、瞬時に見抜けます。これに対し、凡庸なコンサルタントは、用意されたフレームワークと過去事例を使って、問題点を何とか説明しようとします。しかし、具体的に何をどうすれば良いか、説明できない。挙句の果てに「システム導入がカギです」といって、自社のシステム開発営業につなげようとすることもあります。

私はこのまま、新卒で採用されたコンサルタントとして、このコンサル道を歩むことに対して危惧を覚えはじめました。
新卒コンサルタントでも、物事を説明することに長けていたり、人間関係をうまく築くことができたり、営業が得意できたりする人はいます。
また、お客さんの頭の中でもやもやしているタスクを明確にしてあげたりと、ある程度、提供できる価値が存在するのは確かです。


でも、私は、具体的な、目に見える結果が見たかったのです。クライアントが、提案を実行することで、サナギが蝶へ変わるような変身をする、その現場を目撃したかったから、コンサルティング会社に入ったのです。
しかし、現場を知らない、細部を理解できない自分が、どのようにすればそんな具体的な提案ができるようになるのか、見当もつきませんでした。

もっとコンサル経験を積めば見えてくるかもしれないし、そうでないかもしれない。

そもそも、現場を経験せずに、本当にその人の提案で会社の利益の額が変わるほどのインパクトを与えられるコンサルタント本当にがいるかどうか、私には正直疑問でした。

もしかしたら、そんな人もいたのかもしれませんが、私は、みつけることができませんでした。

悩んで、考えた結論は一つ、とりあえず泥にまみれなくてはならない、ということ。
何でもいいから、コンサルタントを離れて、どこかの現場で揉まれようと、そのときに決意をしました。

それが、今の起業という体験につながっているのですが、起業して、自分一人でお客様を集め、自分一人でお客様にサービスを提供すると、細部への気遣いがいかに大切かがわかるようになりました。

細部の話は、また書きたいと思います。

コンサルティング会社に勤めていた時に、ジレンマがありました。

- コンサルティング先の企業が優秀であればあるほど、革新が成功しやすい。しかし、そんな会社は元々コンサルタントに頼らない。=コンサルタント(自分)の存在価値がない

- コンサルティング先の企業が優秀でなければ、コンサルタントは、頼られる。しかし、結局企業の意思決定能力が弱いので、革新が成功しない。 =コンサルタント(自分)の存在価値がない

経営成績が極めて優秀な会社でも、コンサルタントを雇うことがあります。
ある改革を進める上で、第三者的な意見を聞くことが、内部の人間を説得するのに好都合だからです。

しかし、「内部の人間を説得するのに好都合」ということは、結論ありきで、ロジック作りを頼まれているということです。ここに、コンサルタントの意義はありません。リサーチャーで提案資料作成のプロだけで十分でしょう。

また、特定の機能を補充する意味で、コンサルタントを人材派遣として雇う会社もありますが、重大な意思決定を任されるということはないのです。

そもそも、優秀な企業は、もともと自分自身で厳しい現実を客観視できる能力を持っていて、企業によっては、異常なほどの危機感を常に持っていたりします。そのような企業がコンサルタントにものを聞いたところで、とりわけ驚くようなアイデアがでたりすることはありません。すでに分かっていることの再整理だったりします。

また、経営成績が良くない会社でも、コンサルタントを雇うことがあります。それは、当然のことながら、業績を向上させるためです。しかし、こういう会社は、何より意思決定力が弱かったために業績が向上しないのです。そんな会社が、コンサルタントを雇ったからといって、すぐに利益が向上するものではありません。

そんなことを考えながら、「できるコンサルタントって、何だろう」「コンサルティングで結果を出すには、どうすればいいんだろう」と毎日ウンウンうなっていました。

情報の把握で重要なのは、現実に起きた具体的な出来事がわかること。
ビデオカメラで事件の一部始終が撮影されればベストでしょう(最も、そのこと自体に恣意性が入る場合もありますが)。

情報の解釈で重要なのは、解釈者の立場が明確に分かること。
その人の宗教、人種、年齢、性別、キャリア、経験などで、その人が発する解釈が、どんな基盤にもとづいているかを知ることができます。ひいては、その人を信用する、信用しないという判断から、その解釈を是とするか、非とするか、自分なりの結論を下すことができるのです。

優良なコンテンツホルダーがネットにどんどん移行し、テレビのビジネスモデルが、だんだん儲からなくなった時に、チャンネルの専門分化がはじまると思います。その時に、

正確な情報ソースの把握者と優良な解釈者をそろえたニュース番組  と、
扇情的な情報解釈だけを流すニュース番組、
ニュース番組を完全にやめる番組

に各局は分裂を遂げるのではないかと私は考えています。
いずれにしても、今は、少なくともネットでいろんな意見に直接触れることができる。
ある会社の社長の意見も、一ジャーナリストの意見も、一学生の意見も、中間に入る媒体なく、直接見ることができるんです。

マスコミのライブドア報道への姿勢を以って、マスコミに対する批判をする人は多いと思うんですが、こういう傾向が続くのも、あと数年先までだと思います。今はそんなやり方でも視聴者を稼ぐことができているかもしれませんが、視聴者の、情報を見る目が肥えた時に(つまり情報の把握と解釈の分離が誰にも容易にできるようになった時)、マスコミはその情報提供のやり方を必然的に問われるはずです。

マスコミが今行っている扇情的な報道だって、儲からなくなれば、やらなくなるに決まっています。それが資本の論理というものです(これは、もちろん、私の「解釈」です)。


情報が、現場から生で提供される。

いろんな解釈をする人たちが、それぞれの意見を発する。

個人は、いろんな情報と、解釈を理解し、咀嚼して、より良い行動につなげる。

そんな社会が、もっと発展して欲しいと願っています。

情報について、ジャーナリズムに関する話をこのブログで書いたのですが、

よく思うのは、「把握」とというのと、「解釈」とは、別々であるべきだと思うんですよね。

「把握」というのは、何が起こったのか、詳細に理解すること。

たとえば、Aさんが、お酒を飲みすぎて、酔っ払って、店主に「バカヤロー」と言ったとしましょう。

この場合、事実の把握というのは、


Aさんが、○○という居酒屋で、ビールを、中びん5本飲んだ。
Aさんの顔は、普段よりも紅潮していた。
Aさんは、店主に「バカヤロー」と言った。


このような認識を行うこと、これが事実の「把握」です。
これを踏まえて一歩進めるのが、「解釈」です。


Aさんは酔っ払って店主に絡んだ。何か職場で悪いことでもあったのだろう。


これが、「解釈」。

酔っ払った、絡んだ、というのは、それを見た人の解釈。「悪いことでもあったのだろう」も、解釈。

実際には、Aさんは、ビールびんを5本飲んでもシラフでいられる人かもしれません。
また、顔が普段より赤いのも、かぜを引いていたのかもしれない。「バカヤロー」と店主に言ったのは、店主がAさんに、極めて失礼な言動をしたからかもしれないですよね。

全てとは言いませんが、多くのマスコミ記者は、事実の把握をした時点で、勝手に解釈をし始めるんですよね。以下を見てください。


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「ヒューザー」が破産申し立てに反論、答弁書提出

 耐震強度偽装事件で、姉歯秀次・元1級建築士(48)による偽装マンションを販売した開発会社「ヒューザー」(東京都大田区、小嶋進社長)に対し、マンション住民が破産を申し立てた問題で、ヒューザーは15日、申し立ての棄却を求める答弁書を東京地裁に提出した。

 この中でヒューザーは、同社が東京都など首都圏の18自治体や、民間確認検査機関「イーホームズ」(新宿区)を相手取り、総額約144億円の損害賠償請求訴訟を起こしたことを挙げ、「いずれの訴訟も勝訴の見込みがある」と主張。

 このうち自治体に請求した約139億円は「(ヒューザーの)資産として考慮しなければならない」とし、住民側が主張しているような債務超過状態にないとしている。

 ヒューザーが自治体を相手取った訴訟については、北側国土交通相が「故意に偽装した設計者を自ら選んだのは建築主。何かはき違えているのでは」と不快感を示すなど、行政側は強く反発している。
(読売新聞) - 2月15日
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この記事の最初の部分は、淡々と起こった出来事を書き連ねているようです。あからさまな「解釈」が加わっているのは、最後の段落。

まず、北側国土交通相が言ったことですが、前後の文脈、記者からの質問がなく、この文面からだけでは、何を言わんとしているかを知るには不十分です。そこで、記者が、勝手に「不快感を示す」と解釈をしています。ある人が不快感を示しているかどうかは、その人を見る側の解釈によるものであって、明確に断言できるものではありません。また、「行政側は強く反発している」というのも解釈。強く反発、というのも、記者が感じた印象であって、具体的な事実ではありません。

でも、誰かが不快感を感じているとか、反発している、と書かれてある方が、読む側としては面白いんですよね。下世話な話ですが、人が喧嘩したり、対立している様子を見るのは、この上なく愉快なものなのです。その人間心理を利用して、書かれた記事かもしれませんよね。

解釈を勝手に加えることで、ストーリーができます。ストーリーができると、ただの情報に、エンターテイメント性が加わる。エンターテイニングなストーリーの方が、圧倒的に売れるに決まってます。だから、マスコミはこれをやり続ける。
我々は、それを否定することはできません。彼らには、そんなこと言ってもムダですよ。それが、彼らの商売で、現にそれを買っている大衆がいるわけですから。

でも、ブログが発達した現在、私がかなり期待しているのは、この「把握」と「解釈」の役割が分離すること。
情報の仲介者は、ソースを、なるべく生の状態でネット上に届けて(事実の把握だけをして)、後は、ブロガーがその情報を料理する(解釈するってことです)。

解釈というのは人の意見ですから、その性質上、正しいも正しくないもないわけです。
人は、他人の解釈を、一つの意見として受け取ればいい。
でも、一つの物事にはたくさんの解釈があった方が、自分の考えを定めるときに役立ちます。それが、具体的な行動を起こしたり、改めたりする時に影響を与えるわけです。続きを読む

たとえば、次の記事、

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女性税理士中心に実行 ライブドアの粉飾決算

 ライブドアグループの証券取引法違反事件で、買収企業との取引を装ったとされるライブドア本体の2004年9月期の粉飾決算は、前取締役宮内亮治容疑者(38)=同法違反容疑で逮捕=が買収企業側に具体的な手口を示し、社内税理士の女性執行役員らが中心となって経理操作を実行していたことが30日、関係者の話で分かった。

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これは1月30日共同通信の記事です。
事実を淡々と伝えている、ただの新聞記事に見えますよね。

確かに、誰が、どこで、何を、どうした、ということを、比較的単調な表現で伝えているように見えます。

しかし、こんなに信憑性の高そうな文章でも、不明な点があるんですよね。

1. 不必要な単語

まずは、「女性税理士」の部分。税理士が女性だったから「女性」なのでしょうが、ここでジェンダーを明らかにする意味がよくわかりません。

この記事が伝えたかったことは、宮内氏が具体的な手口を示し、その税理士兼執行役員が中心となって経理操作をしていた、と言うことだろうと思うのですが、なぜこの税理士が女性であることがこのニュースにとって重要なのかが極めて不明です。

「女性」という単語がニュースに含まれている(しかも、その単語がヘッドラインで使われている)からには、それが伝えられる、なんらかの意味があるはずですよね。でも、この犯罪を犯したのが女性であるか男性であるかは、事件の重要性にとってどうでもいいことだと思うのですが、いかがでしょう。

「女性」という言葉が使われた理由は、一つ考えられます。あくまで、仮説です。

それは、社会的に高い地位にいる女性への嫉妬心を煽るのに、非常に効果的だということです。
私も見てきましたが、日本の企業社会では、まだまだ女性が高い地位にのぼりつめるのは難しいわけです。
その中で、執行役員になった女性がいる。
しかし、その女性が悪いことをした。

女性を未だに見下している男はまだたくさんいるでしょうから、「違反した役員は女性だった」と言えば、多くの読者はスカッとするかもしれません。低俗な満足感を満たすための、扇情的な記事である可能性があります。

本当に下世話な話だとは思いますが、私にはこれくらいの理由しか思い浮かばないのです。

2. 関係者の話

あと、もう一つ不明な点。「関係者の話で分かった」というもの。

あまりにも良く使われているので見過ごしがちですが、「関係者って誰?」といつも思います。

社員?元社員?同じビルで働いている違う会社の人?役員の友達?元同僚?元同級生?警察?社員の友達?

一つの会社には、いろんな「関係者」がいます。しかし、つながりや関係度合いによって、どれだけよくその会社のことを知っているかと言うことは、バラバラなのです。
だから、「関係者が言った」といわれても、100%信用できるかは、極めて疑わしい。その税理士さんに悪意を抱いている人が言ったのかもしれないし、記者がこの記事を捏造したとしても、我々には結局わからない。


3. 書き手の情報

そして、この記事には、書いた人の名前が載っていません。書いた人が何歳で、どんな地位にいて、どんな人生を送って、どのくらいの経験があって、どういう思想をもっていて、どんな状況でこの記事を書いたかがわからなければ、この記事にどのくらいの信憑性があるかは、本来分からないと思うのです。


この記事に唯一信頼性を与えているのは、「共同通信」という言葉です。
共同通信だから、ウソは書かないだろう、とふつうは思いますよね。

でも、結局そんなことは我々が事件現場にいて、見たわけではないのだから、絶対にわからないのです。

どんな記事であっても、生身の人間が言葉にしてしまった以上、恣意性や解釈が入るのは避けられません。

でも、それは仕方ないし、マスコミはそれを続けていくしかないと思います。しかし、情報の受け手の我々としては、それは当然のこととして、マスコミに対する姿勢を改めなくてははならないと思うんです。

我々にとって必要なのは、とにかくあらゆる角度から情報を集めて、その情報の海の中から、「事実はこうなんじゃないか」「この記事は80%くらいはほんとうなんじゃないか」と推測し、あくまで断定することなく、自分なりの結論を下すことだけだと思うんです。続きを読む

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