Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York

February 2006


研修では、多くの外国人社員に刺激を受け、私も積極的に発言しなければ、と思うようになりました。
研修の大部分は、グループワークです。プログラミングのようなタスクもあるし、ケーススタディのようなものもあります。積み木を積み立てて時間と高さを競うようなゲームもあります。

他には、あるテーマについて話し合いをした上で、グループから一人選出し、クラス全員の前で発表させる、というタスクもありました。私は、それに2回ほど挑戦しましたが、出来は散々でした。

発表後に、“Good job!!”とは言われるものの、気分はすぐれません。ホワイトボードに書いてあることの棒読み、文章にもなっていない単語を羅列しただけの発表であることは、自分が一番よくわかっています。ただし、本当にありがたく思ったのは、皆が挑戦したこと自体に対して、評価してくれたことです。彼らは、私の発表が明らかにブザマであったにもかかわらず、励ましたり、「チャレンジしたことが大事だ」「落ち着いていた」などと声をかけたりしてくれました。

2週間の研修は、終わってみれば、すばらしい体験となって私の中に残りました。普段出会うことのない人たちと、こんな形で協働作業をしたことで、頭の中で大きな化学反応が起こった気分です。

私は日本へ帰国した後、英語学習への決意を新たにしました。「少なくとも20代後半くらいまでには、アメリカ人の議論の中に入っていって、自分の意見を言えるようになりたい」と思ったのです。また、「みんなの前で、何かのテーマについて講演できるようになりたい」と思ったのも、その頃でした。


一瞬、目を疑いました。

Jury Summons(陪審員の召喚状)が、また来ました。

前回は、NY州Queens郡の裁判所から召還されましたが、今回は、Summons(召喚状)の送り主が、"United States District Court"です。
つまり、一個レベルが上の裁判所に呼ばれたわけです。

私は、一回陪審員を終えたら、その後は、5、6年後召還されないのかと思っていました。
しかし、郡・州レベルと、連邦政府レベルでは、管轄が違うのかもしれませんね。

次は、何が起こるのでしょうか。面倒ではありますが、楽しみでもあります。

見つけたその組織の名前は、Quantum Club。

Quantum club は全米の損保代理店の間で、新しいマーケティング手法・経営手法を開発しているグループです。

ダイレクトレスポンスマーケティングの成功事例を共有するようなグループは、アメリカにもたくさんありますが、このグループは、特に損保業界に特化したノウハウの共有をしているらしいのです。

ダイレクトマーケティングについては、自分なりに勉強して、それなりの知識を得ていました。また、学費コンサルティング事業で実践も積んでいた頃でした。
しかし、損保業界でのやり方を知れば、自分のような新規参入でも、勝てるようになるかもしれない、そう単純に思ったのです。

私は、すぐに、会員になる申し込みをしました。
すると、スターターキットと称して、何枚にも渡る、昨年度に行われたQuantum Clubのブートキャンプの収録DVDと、分厚い資料が大きい箱に入って送られてきました。

ブートキャンプと言うのは、Quantum Clubの会員が一年に一回シカゴに集まり、ノウハウを2泊3日かけて共有するという大イベントです。その収録DVDに、早速数日間かじりついて勉強をしていましたが、この内容が、非常に良いんです。

Web上で売られている情報商材は、プロ意識のないもの、全く役に立たないものが非常に多いですよね。私は、日米双方でさまざまな情報商材を買いましたが、アメリカなんて、日本よりもひどいと思います。
しかし、Quantum Clubから送られてきた資料はデザインからして、非常に丁寧に作りこまれていて、彼らのプロとしての意気込みを感じました。

また、内容については、単純にキャッチーなヘッドラインで広告の反応率を上げましょう、購買意欲を喚起しましょう、といった表面的なマーケティング手法の説明だけではありません。
成功する代理店に必要な人材の採用方法、組織体制、経営者のタイムマネジメントといったことにまで言及していたのです。
つまり、成功する代理店のシステムを作り上げるための包括的なアプローチを分解して説明していて、それまで見てきた「ダイレクトマーケティング手法共有グループ」との大きな差を感じました。

私はその後、2005年度のQuantum Clubのブートキャンプが10月にシカゴで開催されると聞かされていたので、行く決意をしました。費用は、2泊3日で$1,300くらいだったと思います。
すでに成功している損保代理店経営者に会えることもさることながら、私のあこがれであったBill Rancicという青年起業家が講演をしにくるというのです。

最後まで、この高額なセミナー費用に迷いましたが、私は身を切るような思いで、気合を入れて支払いを済ませました。

ブートキャンプ開催の前日、資金の乏しかった私は、空港からかなり離れた、うらぶれたモーテルに泊まり、開催場所であるオヘア空港近くのマリオットホテルにタクシーで向かいました。

この研修では非常に大事なことを学びました。

日本人以外の外国人は、全くミスを恐れていないのです。
文法的なミスを明らかにしていても、かまわずしゃべり続けます。
日本人は繊細なのと、減点主義の教育を受けているから、この図太さがないんですよね。

昨日、NBCで、オリンピックフィギュアスケートロシア女子代表のIrina Slutskaya選手がインタビューを受けているのを見ました。
彼女は、ロシア人なので、英語が母国語ではありませんが、ニコニコしながら、アメリカ人レポーターと以下のようなやりとりをしていました。

Reporter: "What did you say to your mom?" (お母さんには何と言ったんですか?)
Irina: "Just talked with her, that's all"(話しただけよ、それだけ)

まず、質問に答えていない(笑)。
でも、楽しそうに、軽く答えているので、「あんまり、何も重要なことは話してない」ということが雰囲気として感じられます。


R: "What did she say to you?" (お母さんは何と言ったんですか?)
I: "Mmm... not really, not too much" (いや別に。そんなに話してないわ)

これも、受け答えは文法的に変ですが、楽しそうに答えてます。意味はわかります。

R: "Did she watch the competition?" (お母さんは、演技を見ましたか?)
I: "I don't think" (思わない)

"I don't think SO"ならスッと意味が通るのですが、"so"がありません。。
何を思わないのか、イマイチ具体的ではありませんが、見ていないと思う、ということでしょうか。
まぁなんとなくわかるではありませんか。

R: "Well, how difficult was it to skate last knowing what had happened to Cohen and knowing what everyone else had done?" (コーエン選手に起こったことや、他の選手の演技を知った後で、最後にすべるのは、どれだけ大変なことでしたか?)
I: "I doesn't know what they did" (彼女らの演技は見ていない)

ハッキリと、でもにこやかに"I DOESN'T know"と答えてます。

堂々とした間違いですが、ここで、彼女の間違いを笑っちゃいけないんですね。
実際に話してみないと、外国人が英語を文法どおり話すのが、いかに難しいかというのは、わからないものです。

間違っても、通じるものは通じるし、それをバカにする人はいません。
だから、本来は、間違え得なんです。たくさん間違えないと、自分の癖がわかりません。
時間をかけてたくさん練習をしてないと、間違える経験さえできない。
間違いを恐れて普段から積極的に話をしないのに、いざという時に完璧にしゃべろうとするから、全くしゃべれずに自信をなくす、ということが起きてきます。

言葉のつなぎが不完全でも、表情豊かに話したり、抑揚をつけたりすることで、意味を通すことはできるんです。私が、研修に行って体験した出来事というのは、まさにこのようなことでした。
インド人も、マレーシア人も、イタリアの人たちも、発している言葉は不完全だけれども、何とか、意味を通して、他の国の人と会話をしていたのです。

これは、私にとっては大変勇気を与えてくれる出来事でした。英語学習の一番の障害は、自分の「間違いに対する恐怖心」であると気づいたからです。日本に帰ったら、たくさん間違えるようにするぞ、と一人誓ったのでした。



それにしても、いつもニコニコしているIrinaさんは、友達にすると楽しそうな感じの方ですね。
そこら辺を歩いていても、フィギュアスケートチャンピオンという感じがしないと思います。
個人的には、あの手作りっぽいロシアのジャージが好きです。

アメリカンフットボールで最も重要とされているポジションが、"Quaterback"です。
勝利のカギを握るチームの司令塔です。

なので、チームが負けると、Quaterbackが非難されることが多いんですね。
そうすると、アメフトの日曜のゲームを見て、月曜の朝になると、

「あのQuaterbackはあそこでパスすべきじゃなかった」 とか、
「あそこで右に行くと失敗すると自分は思ってた」とか、

結果が出てから、勝手な評論をはじめる人達が必ず出てきます。
そういう人のことを、

"Monday Morning Quaterback"

と言うんです。

Monday Morning Quaterbackの言うことは正しい。
でも、当事者意識がないんです。
だから、批評の中では、自分が王様になれる。
その感覚が気持ち良いんだとおもいます。

図らずも、当事者意識のない批判が大嫌いな自分も、ハッとMMQになっていることに気づくことがあります。

あの選手がこうしていれば勝っていたとか、あんな失敗するなんてどうしようもないとか、油断していると勝手なことを言っているものです。
しかし、そんな狭量な自分が実に恥ずかしい。


メダルをとれなかった、4回転ジャンプを成功させられなかった選手に対して、非難とも嫉妬ともつかない評論・コメントが、某ポータルサイトに匿名で続々寄せられているのを発見したのですが、

オリンピックの舞台を知らない凡人の我々に、彼女らの技術・精神レベルの次元を理解することができるのでしょうか。自分はオリンピックに出たこともないのに、「オリンピック代表・日本代表失格ですね」などと書いているのを見ると、吐き気がしてきます。

「あなたはたとえ一回でも、何かで世界の頂点に挑んだことがあるのか」と聞きたい。

大学時代、私はアイスホッケーの練習の一環として、スケーティング練習を、スケートリンクの一般滑走の時間にやっていました。たくさんの一般人が滑走する中で、スケートリンクの中央で、毎日何時間も、フィギュアスケートの練習をしている人たちがいました。

転んでも、何回も立ち上がり、ジャンプに挑戦する。
腕と脚はアザだらけですよ。
コーチに叱られながら、狭いリンクで周りの人にぶつかりながら、それでも毎日のように、彼らは一生懸命練習をしていました。

私は、彼らをメジャーなフィギュアスケートの大会で見たことはありません。

彼ら・彼女らをはるかに上回るたくさんの人たちが大会に出て、その上位の、ほんの一握りの選手数人だけが、オリンピックような世界の舞台に立てているわけです。
その練習と努力の量たるや、想像を絶するものがあります。

傍観者の我々がやるべきことは、その人達に対して、健闘を称えて、ただただ拍手を送ることだと思います。

オリンピックの主人公は、視聴者ではなく、あくまで選手です。
オリンピックで選手が活躍すると、元気と感動をもらったり、メダルがとれないと、盛り上がらなかったり、ふがいなく思うのは、誰しも感じることかも知れません。
しかし、ある意味、それは、他人に自分の幸福をゆだねているサインでもあると思うのです。

自分には、自分が主役になれる仕事があり、
当事者意識をもって取り組める使命があり、
自由に批判して、自由に直すことができる自分の行動があり、
影響をおよぼすことのできる、コミュニティがある。

一生懸命、それらに取り組むこと以外に、大事なものはないと思うのです。

Monday Morning Quaterbackには、なりたくないものです。

私はヒソヒソと話をしている彼らに駆け寄り、質問をしました。

「何か悪いところでも見つかったのか?」
「いやー、この車は明らかに事故に遭ってるよ」

はじめ、修理工は、私を犯罪者であるかのような目つきで見ていました。
私が、アレックスをだまして、事故車を売りつけようとしているのだと思ったに違いありません。
アレックスも、複雑な表情を私を見ています。

修理工は続けて言います。

「誰が見ても明らかだよ」
「え?CARFAXにも、事故ってないって書いてあるぞ、これを見てみろ」

私は、車両の事故履歴が掲載されたCARFAXを見せました。
修理工は、堂々と詰め寄ってきた私に驚いたようでもありました。

「そんなの、あてになんないよ。事故履歴に載らないように、修理したんだろ」
「でも、交通事故を起こしたら、警察に届けられて、ここに載るはずじゃないのか?」

「いや、運転できるほどの小さい事故だったら、わからないよ。とにかく、この部分を見てみればわかる。パーツが取り替えられた部分には、車出荷当時のVIN番号(Vehicle Identification Number)のシールが貼ってあるはずなんだ。でも、これを見ると、ないだろ。車の右前部分が、どこかにぶつかって、パーツが交換された証拠だよ」

私は言葉を失いました。自分が今まで運転していたのは、明らかな事故車だったのです。

「自分は、今まで事故車に乗ってたなんて、知らなかった…」
「んじゃ、ディーラーにだまされたんだな。こんなの、ディーラーだったら、絶対わかってたはずだよ。」

私は、ショックを受けました。ディーラーだったら、わかっていたはず。そうなんでしょうか。
数ヶ月前に行ったディーラーで、私は、セールスマンのウォレスに、面と向かって、ウソを言われていた、ということです。彼らは事実を知りながら、平然と私に事故車を売りつけていたことになります。

「でも、事故車だったら、僕はどうすればいいんだ?このまま事故車だと知ったまま、走りたくないよ」
「ディーラーの所にでも持って行きな。今まで走っていて大丈夫なんだったら、そこまでは問題ないんじゃないか?」

大丈夫なんだったら、なんで、アレックスには引き渡せないんだ?
信じられない思いで、落ち込んでいると、アレックスが、私に聞いてきました。

「本当に残念だけど、チェック、返してくれるかな…」

口元は笑っているが、目は笑っていません。

「ごめん。母親にはちゃんとした車をあげたいんだ」

彼の言うことはごもっとも。私はあと少しで手にしていたはずの、$11,500のチェックを返しました。


修理工の人は、それでも私を疑っているようでした。
疑われていると知れば、普通のアメリカ人なら、攻撃的に反駁するのが普通でしょう。
私がそれをしないので、それが彼にどう映ったのかはわかりません。


もはや、どう見られるかは問題ではありませんでしたが、失意のうちに、その事故車を運転し、Great Neckを離れたのです。

意気揚々と向かったGreat Neck。アレックスは、昼休みで、事務所から出てきました。

小柄で、気難しそうな人でしたが、話してみると、やさしい印象がありました。
私の車を一周して事務的に点検し、大きな傷がないことを確認。

次に、試乗です。

エンジンをかけて、近くの道を回ります。彼は、母親のために、安全な車を買いたいらしいのです。
その車にはたまたまABSが付いていたこと、運転しやすい車であったため、「これだ」と思ったらしいのです。会話をしてみると、お互い信頼感が沸くものです。彼は、私に興味を持って、いろいろ質問をしてきました。

「この車は良さそうだから、最初の値段どおりに、買わせてもらうことにするよ」

彼は、試乗をしたまま銀行に行き、$11,500のBank Checkを作成してくれました。

Bank Checkというのは、銀行が承認する小切手のことです。普通は、自分の持っている空白のチェックに、自分で金額を書き込みます。これに対して、Bank Checkは、銀行がその口座の残金を調べた上で金額と受け取り手を書き込み、作成します。もらう側としては、不渡りがない確実な小切手なので、こうした大きい取引の時にはよく使われます。

私は、落ち着きながらも内心狂喜していました。
買ったときよりも高く売れた!と。

最後に、アレックスは、私に言いました。

「近くに、知り合いの修理工場があるんだが、最後に、一応彼にチェックだけしてもらおうか。大丈夫だと思うけどね。すぐ終わると思うよ」

私には、後ろめたいものはありません。相対取引であるわけですから、修理工で車をチェックすること自体は、手続きとしては当然だと思っていましたので、"OK"といいました。

こうして、修理工場に車を持っていき、アレックスのなじみの修理工が車をリフトします。
私は修理工場の入り口で、ジュースを飲みながらルーティンワークが終わるのを待っています。

しかし、5分立っても終わらない。
10分立っても終わらない。

どうしたんだろうと思って彼らを見てみると、修理工が私の方をチラチラ見ながら、アレックスに何か説明をしています。何をやっているんだろう、と思ったところ、修理工は、車のあちこちを指差しはじめました。

修理工の、私に対する目からは、「軽蔑」が感じられました。

昨年の8月ごろでしょうか、知り合いから、損保免許をとらないか持ちかけられました。彼が行っているビジネスで、他の代理店を使用しているが、損保代理業を自分で持てば、代理店手数料を丸々持っていかれずに済む、と言うのです。私が免許をとり、共同で代理店を作れば、手数料収入を分けることができる、というのです。

単純な私は、それも悪くないかなぁと思い、8月一杯学校に通いながら勉強をし、損害保険(Property & Casualty Insurance)免許の試験を受け、合格しました。
しかし、免許取得直後、一緒に損害保険事業をやろうと言っていた事業のパートナーの連絡がとれなくなりました。要するに、何の説明もなく、消えられたわけです。何か都合が悪くなったのでしょう。

信頼していた人なので、がっかりしましたけど、まぁ、よくあることですよね。共同経営なんて、どうせこんな形になって終わるんだろう、と思っていた私にとっては、むしろ最悪のことが一番早く起こってくれて良かったと密かに考えていました。

その後、ちょうど、9月頃だったでしょうか。たまたま、健康保険の案件で、非常に大きい案件が私のところに持ち込まれました。しかし、あまりに案件が大きいために、私のサービス提供体制では裁ききれません。したがって、いくつか既に存在しているNYの日系保険代理店に連絡をとり、その健康保険のケースを引き取ってくれるように頼みました。

結局話は立ち消えになりましたが、偶然にも、いくつかのNYにある日系損保代理店の担当者のお話を聞くことができたのです。そこで思ったのは、すでに日系の損保代理店として昔から運営しているところは、やはり経験数と、ネットワークが違います。私は、もはや自分で損保代理業をやることをあきらめていましたが、その時、あるウェブサイトに目が止まりました。

Quantum Club という組織です。

最近、頭から離れないのが、NY州司法長官であるEliot Spitzer氏の動向。
司法長官というのは、日本の言葉で言うと、検事総長のようなもので、犯罪を取り締まる、お代官様のような存在です。

彼は、消費者保護のために、これまで積極的に大企業の不正を追求してきたんです。
メリルリンチが、アナリスト業務と投資銀行業務を明確に切り離していなかったために、追求されて和解金を支払わされたのは、日本でも関係者の間ではそこそこのニュースになったんじゃないかと思います。

司法長官というのは、州ごとに設けられているのですが、やはりNY州は、アメリカビジネスの中心地ですし、特に巨大金融企業の本拠地が集まるWall Streetを擁しています。したがって、彼のアクションによって、企業が改善を迫られた場合、NY州だけでなく、全米規模にまで影響を及ぼすんですよね。

つい最近では保険代理業界最大手のMarshが、Bid Rigging(価格操作?)で追求を受けました。当方、保険代理業のため、本件についてはくわしく勉強中です。分かり次第、アップしたいと思います。

ところで、アメリカの組織体制については、あらゆる点で言えることですが、「人」が前面に出てくるところに、個人的には公平性を感じています。

日本だと、金融企業の不正を追求するのは、「金融庁」であったり、「東京地検特捜部」であったりするわけですよね。そうすると、実際に、具体的にどの人物がどんな意思を持って捜査を支持したり、起訴したのかがわかりません。その結果、当局に都合のいい説明しか報道されなかったり、彼らに対する批判は、黙殺されてしまうわけです。これは公平とは言いがたい。

NY州の場合には、Eliot Spitzerという個人が前面に立って「庶民から不正に利益をあげる悪徳企業は許さない」という意思を公に宣言して、説明責任を負った上で、企業追及を実施しているわけです。そうすると、市民の側からも、Spitzer氏の主張が何に立脚しているのかが分かるため、評価も批判もしやすいということがあります。そして、Spitzer氏自身の行動に一貫性がない場合、彼自身がその説明責任を果たさなければ、司法長官としての信頼を失うことになります。

実際に、彼のアクションには、賛成派、反対派が真っ二つに割れている状況ですが、そいういった2つの極の意見が出るというのは、議論を活性化する上では好ましいことだと思います。

これに対し、日本での最近の例で言うと、ライブドアが、東京地検特捜部によって捜索されました。しかし、誰が、どの具体的人物がその中心となって捜索を指示しているのか、不透明ですよね。

東京地検特捜部の行動に一貫性がなかった場合(ライブドアは捜索されたのに○○株式会社は捜索されなかった等)や、間違ったことを行ってしまった場合にも、責任を持って説明する人間がいないために、うやむやになってしまうだろうことは容易に推測できます。

いくら「東京地検特捜部」が完璧な組織のように見えても、実際には、全ての組織行動は、誰かの人間の意思決定によって行われています。そして、人間の意思決定が、全て完璧であるはずがないのです。

だから、私は、誰かが捜査の前面に立ってくれることを強く望みます。国民はその人の説明を聞いて、評価、批判をすれば良いと思うのです。「東京地検特捜部が不正をしたと言っているから、不正をした」という前提が作られることは、健全な議論をすることを妨げます。

4月に入社し、6月に海外研修へ行きました。

私は、何とか英字新聞を読む癖をつけ、英会話喫茶にも通いましたが、まだ英語のコミュニケーション力は不安だらけです。頭の中で、まだ疑問文さえも作れない有様です。その一方で、練習はそれなりにしたし、何とかなるんじゃないか、という思いはありました。

6月、不安のみを頭に抱えたまま、シカゴ郊外の研修施設に向かいました。

研修施設は、もともと大学だった施設を改修してできたものです。
したがって、食べる、寝る、学ぶ、遊ぶ、が全てこの施設内で完結できます。

全世界で、あわせて300名 - 400名くらいはいたでしょうか。この大勢の集団が、何組かに分かれて、新入社員研修を受けるのです。
内容は会社での行動規範だとか、コンサルティング現場で使用する共通のメソッドだとか、そういったものです。

米国の企業であるため、アメリカからの参加者が半分くらいはいたのではないかと思います。日本からの新入社員は、60名前後だったと思います。他にも、イタリア、ドイツ、イギリス、スペイン、ベルギー、南アフリカ、インド、シンガポール、マレーシア、インドネシア、オーストラリアといった国々の事務所から、新入社員が来ていました。

この研修は、一言で言うと、挫折と屈辱のドン底を味わされた研修でした。

まず一番目に愕然としたことが、他の国の人間は、例外なく英語を「ためらいなく」話しているということ。
私も、何ヶ月かの英会話喫茶での特訓を生かし、なんとか話しかけようと試みましたが、全然ダメ…。
間違いを犯してしまうことに対して、躊躇をしてしまうし、結局何を話せばいいのかわからないんです。

こちらのペースにあわせてくれるシンガポール人が一人いて、彼のおかげで、英語の話し相手は一人できましたが、他の国の人間は早口で全くついていけません。特に、取り残されたのが、アメリカ人同士の会話。グループアクティビティになると、彼らが何を言い合っているのか、全くわからないのです…。自分に話しかけてくるときは、手加減をしてもらったので、何とか理解できたのですが。

来る前は、まぁ何とかなるんじゃないか、などと思っていたのですが、それは全くの幻想でした。
講師が言っていることも、なんとなくはわかるものの、内容を自分のものとするにはあまりにレベルが違い過ぎます。

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