Midtown Report

ビジネスと人間に関する発見と考察 from Los Angeles & New York


先週末、姉が仕事で、NYに立ち寄りました。

せっかくなので、レンタカーを借りたら、今期最大の大雪が降り出し、1日であっという間にレンタカーは雪の中に埋まってしまいました。しかも観測史上最大級の積雪。

私が住んでいるアパートでは、道端に縦列駐車をするのが通常なので、まずは積もり積もった沿道の雪山から車をださなければいけませんが、とんでもなく雪の量が多い。

待っていてもしょうがないので、とりあえず雪かき作業を開始。
雪かき用の道具を持っていなかったために、洗濯カゴを使って雪をかき出しました。
姉はフライパン(!)とバケツを持って助けてくれました。

道端を通っている人は、奇異の目で見ていましたが、もちろん助けてくれませんし、こちらも期待していません。

全てとは言いませんが、普段、ビジネスで自分のことしか考えないアメリカ人ビジネスマンばかりに会っていると、そもそも助けてくれるなんて、はじめから期待しなくなりますよね。

雪をある程度書き出して、車に乗り、エンジンをかけたら、今度は滑って車が進まない。
どうしようと難儀していたら、アパートから、30代くらいの男性が出てきて、

"Wanna give it a try?" (試してみる?)

と車を押すポーズをして聞いてきたのです。

彼が背後に回り、押してくれたおかげで、私は何とか車を出すことができたのです。

彼は同じアパートの3階に住むスティーブという男性。
姉が名前とアパート番号を聞いたところ、「何もお礼はいらないよ」と言ってくれたそうです。

アメリカには、人の目をまっすぐ見ながら、平気でウソをつき、人をだます人間がたくさんいます。
その一方で、こんな寒い冬の夜に、何の見返りも求めずに、助けてくれる人もいます。

その事実を知っただけでも、少し良い気分になれた、ある夜の出来事でした。

スティーブへのお礼を、現在考え中です。

真の、結果を出すコンサルタントとは何か、ウンウン悩みながら、仕事をしていたのですが、一回だけ、それを垣間見た貴重なプロジェクトに居合わせたことがあります。

そのプロジェクトでは、自社のコンサルタントだけではなく、ある分野の専門アドバイザーが、関わっていました。驚いたことに、その専門アドバイザーの提案は、戦略レベルのあるべき姿を語りながら、一部分においては極めて具体的。その通りに実行すると、本当に効果が上がるシナリオが立てられていたのです。
「本当に効果が上がることがイメージできる提案」というのは多いようで、少ない。だから、私は衝撃を受けたのです。

彼の作った提案書を見たとき、私はそれまでに味わったことのない感覚に襲われ、まさに「震撼」したのです。詳細をここでお伝えできないのが本当に残念です。

彼の提案書と、自分がそれまで書いてきた提案書の違い。
それは、「真実は細部に宿る」ということ。
細部をわかっている人間が作る提案書は、すぐに実行できて、すぐに効果が出ます。

そして、細部を語るためには、現場をわかっていなければならない。

事業が動いて、実際に最後の利益を出すまでには、いろいろなプロセスを踏みます。
そのプロセスは、うまく行っているように見えて、実際には利益が出ていない。

でも、その原因は、ほんの些細な、1つのプロセスの、現場の1動作に隠れていたりします。

ホンモノのコンサルタントは、脳に蓄積された膨大な過去の事例集から、その1動作を、瞬時に見抜けます。これに対し、凡庸なコンサルタントは、用意されたフレームワークと過去事例を使って、問題点を何とか説明しようとします。しかし、具体的に何をどうすれば良いか、説明できない。挙句の果てに「システム導入がカギです」といって、自社のシステム開発営業につなげようとすることもあります。

私はこのまま、新卒で採用されたコンサルタントとして、このコンサル道を歩むことに対して危惧を覚えはじめました。
新卒コンサルタントでも、物事を説明することに長けていたり、人間関係をうまく築くことができたり、営業が得意できたりする人はいます。
また、お客さんの頭の中でもやもやしているタスクを明確にしてあげたりと、ある程度、提供できる価値が存在するのは確かです。


でも、私は、具体的な、目に見える結果が見たかったのです。クライアントが、提案を実行することで、サナギが蝶へ変わるような変身をする、その現場を目撃したかったから、コンサルティング会社に入ったのです。
しかし、現場を知らない、細部を理解できない自分が、どのようにすればそんな具体的な提案ができるようになるのか、見当もつきませんでした。

もっとコンサル経験を積めば見えてくるかもしれないし、そうでないかもしれない。

そもそも、現場を経験せずに、本当にその人の提案で会社の利益の額が変わるほどのインパクトを与えられるコンサルタント本当にがいるかどうか、私には正直疑問でした。

もしかしたら、そんな人もいたのかもしれませんが、私は、みつけることができませんでした。

悩んで、考えた結論は一つ、とりあえず泥にまみれなくてはならない、ということ。
何でもいいから、コンサルタントを離れて、どこかの現場で揉まれようと、そのときに決意をしました。

それが、今の起業という体験につながっているのですが、起業して、自分一人でお客様を集め、自分一人でお客様にサービスを提供すると、細部への気遣いがいかに大切かがわかるようになりました。

細部の話は、また書きたいと思います。

コンサルティング会社に勤めていた時に、ジレンマがありました。

- コンサルティング先の企業が優秀であればあるほど、革新が成功しやすい。しかし、そんな会社は元々コンサルタントに頼らない。=コンサルタント(自分)の存在価値がない

- コンサルティング先の企業が優秀でなければ、コンサルタントは、頼られる。しかし、結局企業の意思決定能力が弱いので、革新が成功しない。 =コンサルタント(自分)の存在価値がない

経営成績が極めて優秀な会社でも、コンサルタントを雇うことがあります。
ある改革を進める上で、第三者的な意見を聞くことが、内部の人間を説得するのに好都合だからです。

しかし、「内部の人間を説得するのに好都合」ということは、結論ありきで、ロジック作りを頼まれているということです。ここに、コンサルタントの意義はありません。リサーチャーで提案資料作成のプロだけで十分でしょう。

また、特定の機能を補充する意味で、コンサルタントを人材派遣として雇う会社もありますが、重大な意思決定を任されるということはないのです。

そもそも、優秀な企業は、もともと自分自身で厳しい現実を客観視できる能力を持っていて、企業によっては、異常なほどの危機感を常に持っていたりします。そのような企業がコンサルタントにものを聞いたところで、とりわけ驚くようなアイデアがでたりすることはありません。すでに分かっていることの再整理だったりします。

また、経営成績が良くない会社でも、コンサルタントを雇うことがあります。それは、当然のことながら、業績を向上させるためです。しかし、こういう会社は、何より意思決定力が弱かったために業績が向上しないのです。そんな会社が、コンサルタントを雇ったからといって、すぐに利益が向上するものではありません。

そんなことを考えながら、「できるコンサルタントって、何だろう」「コンサルティングで結果を出すには、どうすればいいんだろう」と毎日ウンウンうなっていました。

情報の把握で重要なのは、現実に起きた具体的な出来事がわかること。
ビデオカメラで事件の一部始終が撮影されればベストでしょう(最も、そのこと自体に恣意性が入る場合もありますが)。

情報の解釈で重要なのは、解釈者の立場が明確に分かること。
その人の宗教、人種、年齢、性別、キャリア、経験などで、その人が発する解釈が、どんな基盤にもとづいているかを知ることができます。ひいては、その人を信用する、信用しないという判断から、その解釈を是とするか、非とするか、自分なりの結論を下すことができるのです。

優良なコンテンツホルダーがネットにどんどん移行し、テレビのビジネスモデルが、だんだん儲からなくなった時に、チャンネルの専門分化がはじまると思います。その時に、

正確な情報ソースの把握者と優良な解釈者をそろえたニュース番組  と、
扇情的な情報解釈だけを流すニュース番組、
ニュース番組を完全にやめる番組

に各局は分裂を遂げるのではないかと私は考えています。
いずれにしても、今は、少なくともネットでいろんな意見に直接触れることができる。
ある会社の社長の意見も、一ジャーナリストの意見も、一学生の意見も、中間に入る媒体なく、直接見ることができるんです。

マスコミのライブドア報道への姿勢を以って、マスコミに対する批判をする人は多いと思うんですが、こういう傾向が続くのも、あと数年先までだと思います。今はそんなやり方でも視聴者を稼ぐことができているかもしれませんが、視聴者の、情報を見る目が肥えた時に(つまり情報の把握と解釈の分離が誰にも容易にできるようになった時)、マスコミはその情報提供のやり方を必然的に問われるはずです。

マスコミが今行っている扇情的な報道だって、儲からなくなれば、やらなくなるに決まっています。それが資本の論理というものです(これは、もちろん、私の「解釈」です)。


情報が、現場から生で提供される。

いろんな解釈をする人たちが、それぞれの意見を発する。

個人は、いろんな情報と、解釈を理解し、咀嚼して、より良い行動につなげる。

そんな社会が、もっと発展して欲しいと願っています。

情報について、ジャーナリズムに関する話をこのブログで書いたのですが、

よく思うのは、「把握」とというのと、「解釈」とは、別々であるべきだと思うんですよね。

「把握」というのは、何が起こったのか、詳細に理解すること。

たとえば、Aさんが、お酒を飲みすぎて、酔っ払って、店主に「バカヤロー」と言ったとしましょう。

この場合、事実の把握というのは、


Aさんが、○○という居酒屋で、ビールを、中びん5本飲んだ。
Aさんの顔は、普段よりも紅潮していた。
Aさんは、店主に「バカヤロー」と言った。


このような認識を行うこと、これが事実の「把握」です。
これを踏まえて一歩進めるのが、「解釈」です。


Aさんは酔っ払って店主に絡んだ。何か職場で悪いことでもあったのだろう。


これが、「解釈」。

酔っ払った、絡んだ、というのは、それを見た人の解釈。「悪いことでもあったのだろう」も、解釈。

実際には、Aさんは、ビールびんを5本飲んでもシラフでいられる人かもしれません。
また、顔が普段より赤いのも、かぜを引いていたのかもしれない。「バカヤロー」と店主に言ったのは、店主がAさんに、極めて失礼な言動をしたからかもしれないですよね。

全てとは言いませんが、多くのマスコミ記者は、事実の把握をした時点で、勝手に解釈をし始めるんですよね。以下を見てください。


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「ヒューザー」が破産申し立てに反論、答弁書提出

 耐震強度偽装事件で、姉歯秀次・元1級建築士(48)による偽装マンションを販売した開発会社「ヒューザー」(東京都大田区、小嶋進社長)に対し、マンション住民が破産を申し立てた問題で、ヒューザーは15日、申し立ての棄却を求める答弁書を東京地裁に提出した。

 この中でヒューザーは、同社が東京都など首都圏の18自治体や、民間確認検査機関「イーホームズ」(新宿区)を相手取り、総額約144億円の損害賠償請求訴訟を起こしたことを挙げ、「いずれの訴訟も勝訴の見込みがある」と主張。

 このうち自治体に請求した約139億円は「(ヒューザーの)資産として考慮しなければならない」とし、住民側が主張しているような債務超過状態にないとしている。

 ヒューザーが自治体を相手取った訴訟については、北側国土交通相が「故意に偽装した設計者を自ら選んだのは建築主。何かはき違えているのでは」と不快感を示すなど、行政側は強く反発している。
(読売新聞) - 2月15日
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この記事の最初の部分は、淡々と起こった出来事を書き連ねているようです。あからさまな「解釈」が加わっているのは、最後の段落。

まず、北側国土交通相が言ったことですが、前後の文脈、記者からの質問がなく、この文面からだけでは、何を言わんとしているかを知るには不十分です。そこで、記者が、勝手に「不快感を示す」と解釈をしています。ある人が不快感を示しているかどうかは、その人を見る側の解釈によるものであって、明確に断言できるものではありません。また、「行政側は強く反発している」というのも解釈。強く反発、というのも、記者が感じた印象であって、具体的な事実ではありません。

でも、誰かが不快感を感じているとか、反発している、と書かれてある方が、読む側としては面白いんですよね。下世話な話ですが、人が喧嘩したり、対立している様子を見るのは、この上なく愉快なものなのです。その人間心理を利用して、書かれた記事かもしれませんよね。

解釈を勝手に加えることで、ストーリーができます。ストーリーができると、ただの情報に、エンターテイメント性が加わる。エンターテイニングなストーリーの方が、圧倒的に売れるに決まってます。だから、マスコミはこれをやり続ける。
我々は、それを否定することはできません。彼らには、そんなこと言ってもムダですよ。それが、彼らの商売で、現にそれを買っている大衆がいるわけですから。

でも、ブログが発達した現在、私がかなり期待しているのは、この「把握」と「解釈」の役割が分離すること。
情報の仲介者は、ソースを、なるべく生の状態でネット上に届けて(事実の把握だけをして)、後は、ブロガーがその情報を料理する(解釈するってことです)。

解釈というのは人の意見ですから、その性質上、正しいも正しくないもないわけです。
人は、他人の解釈を、一つの意見として受け取ればいい。
でも、一つの物事にはたくさんの解釈があった方が、自分の考えを定めるときに役立ちます。それが、具体的な行動を起こしたり、改めたりする時に影響を与えるわけです。続きを読む

たとえば、次の記事、

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女性税理士中心に実行 ライブドアの粉飾決算

 ライブドアグループの証券取引法違反事件で、買収企業との取引を装ったとされるライブドア本体の2004年9月期の粉飾決算は、前取締役宮内亮治容疑者(38)=同法違反容疑で逮捕=が買収企業側に具体的な手口を示し、社内税理士の女性執行役員らが中心となって経理操作を実行していたことが30日、関係者の話で分かった。

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これは1月30日共同通信の記事です。
事実を淡々と伝えている、ただの新聞記事に見えますよね。

確かに、誰が、どこで、何を、どうした、ということを、比較的単調な表現で伝えているように見えます。

しかし、こんなに信憑性の高そうな文章でも、不明な点があるんですよね。

1. 不必要な単語

まずは、「女性税理士」の部分。税理士が女性だったから「女性」なのでしょうが、ここでジェンダーを明らかにする意味がよくわかりません。

この記事が伝えたかったことは、宮内氏が具体的な手口を示し、その税理士兼執行役員が中心となって経理操作をしていた、と言うことだろうと思うのですが、なぜこの税理士が女性であることがこのニュースにとって重要なのかが極めて不明です。

「女性」という単語がニュースに含まれている(しかも、その単語がヘッドラインで使われている)からには、それが伝えられる、なんらかの意味があるはずですよね。でも、この犯罪を犯したのが女性であるか男性であるかは、事件の重要性にとってどうでもいいことだと思うのですが、いかがでしょう。

「女性」という言葉が使われた理由は、一つ考えられます。あくまで、仮説です。

それは、社会的に高い地位にいる女性への嫉妬心を煽るのに、非常に効果的だということです。
私も見てきましたが、日本の企業社会では、まだまだ女性が高い地位にのぼりつめるのは難しいわけです。
その中で、執行役員になった女性がいる。
しかし、その女性が悪いことをした。

女性を未だに見下している男はまだたくさんいるでしょうから、「違反した役員は女性だった」と言えば、多くの読者はスカッとするかもしれません。低俗な満足感を満たすための、扇情的な記事である可能性があります。

本当に下世話な話だとは思いますが、私にはこれくらいの理由しか思い浮かばないのです。

2. 関係者の話

あと、もう一つ不明な点。「関係者の話で分かった」というもの。

あまりにも良く使われているので見過ごしがちですが、「関係者って誰?」といつも思います。

社員?元社員?同じビルで働いている違う会社の人?役員の友達?元同僚?元同級生?警察?社員の友達?

一つの会社には、いろんな「関係者」がいます。しかし、つながりや関係度合いによって、どれだけよくその会社のことを知っているかと言うことは、バラバラなのです。
だから、「関係者が言った」といわれても、100%信用できるかは、極めて疑わしい。その税理士さんに悪意を抱いている人が言ったのかもしれないし、記者がこの記事を捏造したとしても、我々には結局わからない。


3. 書き手の情報

そして、この記事には、書いた人の名前が載っていません。書いた人が何歳で、どんな地位にいて、どんな人生を送って、どのくらいの経験があって、どういう思想をもっていて、どんな状況でこの記事を書いたかがわからなければ、この記事にどのくらいの信憑性があるかは、本来分からないと思うのです。


この記事に唯一信頼性を与えているのは、「共同通信」という言葉です。
共同通信だから、ウソは書かないだろう、とふつうは思いますよね。

でも、結局そんなことは我々が事件現場にいて、見たわけではないのだから、絶対にわからないのです。

どんな記事であっても、生身の人間が言葉にしてしまった以上、恣意性や解釈が入るのは避けられません。

でも、それは仕方ないし、マスコミはそれを続けていくしかないと思います。しかし、情報の受け手の我々としては、それは当然のこととして、マスコミに対する姿勢を改めなくてははならないと思うんです。

我々にとって必要なのは、とにかくあらゆる角度から情報を集めて、その情報の海の中から、「事実はこうなんじゃないか」「この記事は80%くらいはほんとうなんじゃないか」と推測し、あくまで断定することなく、自分なりの結論を下すことだけだと思うんです。続きを読む

アメリカの人気ドラマで、"Lost"というものがありますが、今週は非常に示唆にあふれた話でした。

"Lost"というドラマでは、飛行機墜落事故に遭った数十名の乗客が南の孤島にとりのこされ、そこでサバイバル生活をするという設定です。

このドラマがヒットした何よりの要因は、人物描写が極めて深いことです。孤島のサバイバルで集団生活をしていく中で、いろいろな争いごとがおきます。しかし、それぞれの人物の、孤島での行動は、過去にその人が体験した出来事によって築かれた価値観によって決まっているわけです。

ドラマでは、それぞれの登場人物が、飛行機事故の前にどのような生活をしていたか、どのような体験をしたかを、フラッシュバック形式で見せます。それにより、視聴者は、その人物が持っている執着や信念を理解し、なぜ、その孤島で、特定の行動をとっているのかに、共感することができるのです。

そして、視聴者は、時に現実世界でも遭遇するような、人間関係の埋めることのできない溝や、気持ちのすれ違い、また共感を、自分の体験と重ねあわせることができるのです。

今週は、詐欺師であるソーヤーの物語。

詳しいストーリーは言うとつまらないので、省きますが、この詐欺師が面白いことを言っていたのです。

"Long Con"という、詐欺の究極的な方法があると。

これは、詐欺師が、単純にトリックを使って相手をだまし、お金をぶんどるのではなく、だまされる側が、あたかも自分の意思でお金を詐欺師に与えたかのように仕組む、というのがその定義らしいのです。

"Long Con"では、欲しいものを直接求めては絶対にいけない。
その欲しいものをあげる、と言わせるか、自然とその欲しいものが自分の所に転がりこむように、間接的に人間関係を操作しなければならないのです。

ソーヤーが孤島でやったことは、集団の中の人物同士の利害関係を見抜き、あくまで部外者としてあちこちに憶測を流すことで、集団の中で対立状態を生み出し、その隙に彼が最も欲しがっていたあるものを手に入れるのです。



話は飛ぶのですが、会社の営業やマーケティングでも、この詐欺師の考え方は極めて有効です。もちろん詐欺なんてするわけにはいきませんが、

「その商品が買われたことが、その購入者の自立的な意思で行われた」

と思わせるしかけや演出を作ることは、非常に重要ですよね。

なんだか、お客さんをだましているみたいですが、ある程度こういう考え方は、毒にならない程度に必要なのではないかと思います。それは、お客さんのハッピー度につながってくるからです。いい商品でも、売り込まれたのと、自分の意思で買ったのでは、満足感が全然違います。

売り込みをしそうになったときには、この詐欺師のストーリーを思い出すことにします。

この頃になって、英会話新聞を少しずつ、「読み始める」ようになりました。

大学時に挫折して以来ですが、また始める気持ちになったのです。

その頃、ちょうどNHL(北米アイスホッケーリーグ)のプレーオフの記事が、連日のようにスポーツ欄に載るようになっていました。アイスホッケーは大学時代にやっていたこともあって、プレーオフの試合結果にはとても興味を持っていました。

それまでは、英字新聞をとってはいたものの、写真を眺めているだけでしたので、これだけでもたいした進歩です。読むように意識したことはありませんでしたが、気づいたらいつの間にか読むようになっていた、というような感じです。

英語学習者の中で、英字新聞や雑誌をとりはじめたけど、全然読まなくなった、という人は結構いるんですよね。その気持ちはよくわかるんです。私も、とりはじめてから数年は、ほとんど読んでないですから。

でも、何かどうしても知りたいことがそこにしか書いてないとなると、やっぱり読みたくなります。

私は、NHLという、極めて日本語情報を得るのが難しい分野に興味を持っていたので、これは幸運だったかもしれません。とにかく、これで英字新聞を読み始める糸口をつかんだわけですから。

本当は「英字新聞は毎日強制されて読まされる」、というのが一番の上達の近道だと思っています。
強制でもされなければ、なかなか読む機会なんてないからです。
外資系金融機関に勤めていればそんなプレッシャーもあるかもしれませんが、普通の日本人が日本で生活している限り、そんなことは起きないわけですよね。

根本的に、読む理由なんてない。だから、英字新聞をがんばって読み始めても、ほとんどの人は途中であきらめてしまう。でも、日常的に、毎日受け取って、毎日カバンに入っていれば、たまに見てみるか、くらいの気は起きるんじゃないでしょうか。

短期間で集中して勉強するわけではないけれども、たまに読むというのが継続されることが、ものすごく重要だと思うわけです。

言語はすぐに忘れてしまいますから、勉強方法よりも、いかに継続させるかを考えるべきだと思います。

車を売ることに決めた私は、cars.comというウェブサイトに自分の車の写真を載せ、売ることに決めました。非常にメジャーなサイトなので、反応が結構あるかとおもっていたのですが、全くと言っていいほど、反応はありません。

価格が高かったせいでしょうか、私は$11,500と提示して売りにだしていました。これは、私が買った価格よりも高いのです。

車の広告を載せて1ヶ月くらい経ち、忘れた頃に、Great Neckというところに住んでいるアレックスという人から、電話がかかってきました。アレックスは、「すぐにその車が欲しい、母親のプレゼントとしてあげたいんだ」と言ってきたのです。

Great Neckは、NY州のロングアイランドと言われる地域の一部(正確にはNassau郡)で、非常に裕福な地域です。

「頼むから絶対に他の人に売らないでくれ。言い値の$11,500を出すと約束するから」

電話口で、ここまで言われては、黙っていられません。
私は、意気揚々と、車を走らせて、彼の住むGreat Neckへ向かいました。


新入社員だった私は、「英会話喫茶」というものに目をつけました。
支払うのはお茶代だけで、中で自由に外国人とお話ができる場所なのです。

まぁ、同期入社の人間にこの話をしたら、散々バカにされましたけど…。
なんだか、そんなところにいくのは恥ずかしい、というような認識があったのかもしれません。

しかし、とにかく英語を話さないと、と焦りに焦っていた私は、もう何でもいいと思ってました。


ネットで検索したのですが、私が目をつけたのが、ミッキーハウス
高田馬場にあります。

当時と比べたら、ずいぶん立派なウェブサイトになってますね。
また、料金も少し高くなっているような気がします。繁盛しているんだと思います。

ビルの4階にあるのですが、初めて入った時は、それはもう緊張しました。
あれは、会社の研修帰りの、ある平日の夜だったと思います。

"Shall We ダンス?"を見た人はわかると思うんですが、役所広司が、ダンスのスクールに入りたいけど入れない、というシーンがあります。まさに、そんな状態でした。

ビルの4階の入り口で止まって、「いや、今日はやめておこう」と思って1階に降り、「いや、今日行かねばいつ行く」と思って4階に上がり、また「やめよう」と思って1階にくだり、ということを延々と3回くらい繰り返していました。

心臓がドキドキしながら、「何でオレは英会話喫茶くらいでこんなに緊張しているのだ」と思いながら、息を止めて、何も考えないようにして、思い切って、ドアを開けて中に入りました。

中に入ると、そこはまさに喫茶店。
気さくそうな店長のような方が、私に話しかけてくれました。

料金を払って、コーヒーをつぎ、周りを見渡すと、一人隅のテーブルに座っている、やさしそうなおじさんがいます。けっこう、年をとっているような感じで、話しかけ安そうな雰囲気でした。

私は思い切って声をかけました。

"H, Hello"

おじさんはやさしく返してくれました。きっと英会話初心者をたくさん相手にしているのでしょう。
いろいろな話をしてくれました。

もう何をそこでしゃべったのかは忘れましたが、とにかく私は必死に言葉を出そうとしました。
しかし、ほとんど出ませんでした。

本当に典型的な英会話初心者で、YesかNoと笑いで乗り切るしかありませんでした。

しかも、コミュニケーションに肝心な、「質問」ができません。語順を逆転させて質問する、というような単純なことでも、ものすごく大きなハードルで、まともに質問すらできなかったように思います。

あげくのはてには、何とか単語をつなげて放出していると、そのおじさんが

"You speak very good English"

という風に言ってくれたのですが、それを真に受けた私は、メチャクチャ舞い上がってしまいました。。
単語を発しているだけなのに、very goodも何もないじゃないですか。
こんなセリフ、外国人だったら、どんな日本人にでも言ってくれるんですよね。

その頃はそんなことも知らないので、そんなことでもポジティブにとらえて、「また次回も来よう」と単純に考えていました。

初めての英会話喫茶、初日は落胆の結果に終わりましたが、まだまだがんばらねばならないとという気持ちを固めました。

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